【宗教リテラシー向上委員会】 信仰とは人類共通の生活形式だ! 波勢邦生 2017年8月11日

 梅雨も明けて台風一過。本格的に夏がやってきた。盆休みに合わせて帰省する人もいるだろう。先日、「職場での宗教はタブーなのか?」と問う記事を読んだ。現代米国において増加するムスリム労働者の礼拝休憩と彼らを雇う経営者の折衝が問題となっている。日本でも「野球と政治と宗教の話は時と場所、人をわきまえよ」とされてきた。誰がどのような意見、立場にあるか分からず、争いの種になりがちだからだ。ではなぜ「野球と政治と宗教」はタブーなのか。

 それは多くの人が生活の中で、そこに「価値」を置いているからだ。あの試合の勝敗は? また税金が上がるのか! ということは、近代社会の日常的な側面であり、実は誰もがそれについて「関心」を持っている。スポーツと行政の行方について人々は語りたがっている。だから話のネタになる。さらに神仏と信仰、老いと死について人々は語らざるを得ない。なぜなら、そこで人は究極的な問題としての「生と死」に向き合うからだ。20世紀の碩学パウル・ティリッヒは「信仰とは究極的な関心である」とした。だから争いの種となり話のネタとなる。みな関心があってしかたない、しかし素面では語れない。

 では、その関心はどのような形で現れるのか。日本では盆の帰省ついでの墓参りや初詣に、ムスリムにはそれが日々の礼拝に、クリスチャンには毎週の教会出席に現れる。心は身体化され実践されて確認可能となる。信仰や信心は感傷ではなく、身体を含むもの、つまり生活そのものだからだ。誤解を恐れずに言おう。信仰とは生活だ。人類に共通の生活形式なのだ。 

 宗教生活は戒律との距離感で表現される。例えばアブラハムの宗教は明確に戒律の宗教だ。仏教もそうだろう。キリスト教は戒律についてゆるい印象もあるが、それは戒律の解釈が多様だからだ。つまり、その距離の取り方が解釈をあらわにしている。信仰的立場から、何かに取り組む時、現代社会のさまざまな問題の広さ・長さ・高さ・深さの分だけ、解釈が生まれるのだ。

 期せずして、先回までにそれぞれの「距離の取り方」が見えた。川島さんが、衝突の現場、格差貧困の問題にこそ「宗教の補助線」を引くように示してくれた。池口さんはその問題を「苦しみ」として捉えて、宗教の枠を超えた普遍的な課題とし、ナセルさんは「解釈の柔軟性」から等身大のムスリムを見せてくれた。戒律を解釈することは、オーケストラの演奏に似ている。指揮者によって同じ楽譜が多様な音色と味わいを持つように、宗教生活は人によって変わるのだ。それは宗派教団によっても変わる。ひと口にキリスト教と言っても多様な伝統があるのだ。

 職場での宗教はタブーだろうか。近代市民社会に戒律を持ち込むことは反社会的なことなのか。盆休みとタバコ休憩が許されて、なぜムスリムの毎日の礼拝を許容できないのか。多様性とは喧騒と雑踏の言い換えだ。多様性を包摂する社会を目指す時、人間だけでなく神仏もまた欠くべからず隣人となる。

 宗教的戒律と近代法は、どちらも人間生活を守るものだが「異なる生活」との擦り合わせ、棲み分けが必要になる。だから、解釈を語る場として寺社教会がある。まず、そこで気軽に「究極的な関心」を語らう仲間をつくろう。次に「自他ともに理解できない」ことを理解するのだ。すると喧騒と雑踏に優しさが加わる。タブーも「隣人」だと気づく。そして、人間という解釈の余白が見えたら、僕らの足は、多元的な社会の地面についている。

 

波勢邦生  「キリスト新聞」関西分室 研究員
 はせ・くにお 1979年、岡山県生まれ。京都大学大学院文学研究科 キリスト教学専修在籍。研究テーマ「賀川豊彦の終末論」 。 趣味:ネッ ト、宗教観察、読書。

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