【追悼】 日野原重明さんを偲ぶ「メディカルスクールの創設の遺志継いで」 西原廉太(立教学院副院長)

 日野原重明先生が主のもとに召された。日野原先生には、さまざまなことを教えていただいた。4年ほど前、聖路加の理事会終了後に懇親会があり、たまたまお隣の席が日野原先生だった。その時のことであるが、日野原先生は、私に、「ところで西原さんはおいくつですか?」と尋ねられた。私は、「ちょうど50歳になりました」と答えたところ、日野原先生から、「ああそうですか。あと50年がんばってね」と返されたのも愉快な思い出である。

 理事会にも2年ほど前までは、現役で出席されていた。会議中は首を垂れて、お休みになっているようにもお見受けするのだが、理事会の最後に、福井次矢理事長(当時)が、「最後に、日野原先生、何かございますか?」と振られると、おもむろに頭を上げて、「さっきの財務諸表だけど、あれはおかしくないか?」などと指摘されるなど、最後まで頭脳明晰であられた。

 忘れもしないのは、2013年8月に、第56回聖公会関係学校教職員研修会の主幹校を立教大学が務め、私は、副総長として、同研修会運営の実行委員長を任ぜられ、基調講演の講師を日野原先生にお願いしたことである。日野原先生はもちろん超多忙で、スケジュールは1年前から押さえていただいたのであるが、秘書課の方からは、もう100歳も超えているので、万一できない場合のための備えはしておいてくださいと言われたのを覚えている。

 そして本番当日、日野原先生を、総長の執務室にお迎えし、しばし歓談したのであるが、なんと前日、ニューヨークから帰国したところだということで、吉岡知哉総長と腰を抜かした。日野原先生曰く、「私はもう時差ぼけというものがないんですよ」と。太刀川記念会館3階ホールの舞台に登壇される際も、杖も使わずに上がられ、しっかりと約1時間半、熱く語ってくださった。実は、私はその1週間前に、急性胆嚢炎になってしまい、前日まで聖路加国際病院に入院していた。日野原先生の講演会の司会をはじめ、研修会自体を仕切らなければならないため、担当医からは10日は最低入院と言われていたところを、無理を言って1週間で出させてもらった、という状況で、私の方がよっぽど、よろよろしていた次第であった。

 日野原先生からは、「一人ひとりの存在と共にあること~聖公会学校の原点を確かめる~」という主題で、ご講演いただいた。日野原先生は、このようなことを語ってくださった。

 「私は、実際は立教とは非常に深い関係がありまして、敗戦によって全面的な降伏をして、そしてマッカーサーのGHQの指令によったときに、聖路加国際病院は接収をされました。聖路加病院に空襲がなかったのは、何かミッションスクールであるというようなことであるかも分からないということでございましたから、実際は戦後、アメリカの野戦病院として、聖路加国際病院はマッカーサーによって、GHQが東京に入ってから2週間後に病院は全面的に接収されました。接収期間は12年に及びました。その間、私たちは病院を失ったわけでありまして、小さなクリニックでいったんこの病院を解散して、仕事を若干続けましたが、私は学生のころから肺結核をやりまして、そのために徴兵検査にも、兵士にもとられなかったわけです。私は戦争中はずっと聖路加病院で勤務し、もう74年間、今までずっと勤務をしております。戦後、私は体も弱いということで、この立教学院の健康相談所の所長ならびに保健体育の教授として昭和24年からアメリカに留学する昭和26年までの2年間は、この学校に来て、小学生をはじめ大学の学生の健康診断などをやったり、講義をしたわけでありますから、私は立教学院とは関係が強いということになるわけでございます」

 「今までの医学は人々のいのちに年齢を加えて生き延ばすことに貢献してきたが、これからの医学は、人々の今の年齢に『いのち』を与えることが医師の責任であるということです。今までの医学はただ、ただ長生きをするということだけに集中してきたけれども、これからの医学は、今の年齢に本当の命を与えるのが今の医学であるというすばらしい言葉を、私はラスクの言葉をモリス・ピアソル先生から学んできたわけであります。つまり、私たちのこの医学は、もっともっと問題を持っている患者や困っている人に寄り添って、そして命を与えるということ。多くの人が3・11で困って、もうどうして生きていいか分からないというときに、ただ、ただ気の毒だなというふうに思うのでなしに、実際に寄り添って、腕を支えるということをしなくてはならない。我慢しなさい、我慢しなさいと言うのではなくて、寄り添ってあげることが必要であって、世界で最初の近代的なホスピスが聖クリストファーホスピスという、ロンドンの郊外のシデナムというところにある。そのシシリー・サンダース先生を私は3回訪れまして、最後の3回目のときに、彼女がもう70歳を過ぎてからのことでありますが、サンダース先生が長年やってきたホスピスのことを一言で言えば、どういうことかと聞きました。がんの患者で痛みがある患者にモルヒネを与えて、そうして苦しみをとり、死の不安をできるだけとってあげるという、命が制限された患者に何が必要であるかを一言で私に教えてくださいと言ったら、彼女が言ったことは、”Being with the patient”、患者とともに。患者がだんだん、だんだん亡くなる時に、患者がいろいろなことを思い出して語ることを静かに聞いてあげ、ああそう、ああそうということをして、患者が語る言葉を静かに聞きながら、その腕を握ってあげて、そして患者と一緒に死ぬような態度。これがホスピスの中に必要であるということ。死ぬ人と治療する人ではなしに、一緒に死ぬのだ、ともに死ぬのだ。これが寄り添うという、”Being with the patient”の一番大切なことであるということを考えて、3.11の事件の人にも、寄り添うということはどういうことであるかということを、私たちはやはり理解しなくてはならないと思っているわけでございます」

 「今の医学教育というのは、病気は教えますよ。病気の診断の仕方は教えます。しかしながら、病気を持っている人にどうアプローチをすべきかという大切なことは、今の医学校の多くでは教えていないです。学生も、診断の仕方は熱心だけれども、患者とのコミュニケーションのことはしないわけであります。アメリカではどうかと申しますと、高等学校を出ると、アメリカはカレッジ・オブ・リベラルアーツの4年生のカレッジに入ります。そうして、4年のリベラルアーツを学んでから、4年制の大学に、メディカルスクールに入りますから、高校を出て8年かかるわけです。国家試験を通って医師になるのは28歳。ところが、日本は6・3・3年、そして6年ですから、23歳で医者になる。医者になったらいろいろな人、大学の教授であったり、牧師であったり、作家であったり、いろいろな人の主治医となってその人に診断や何かの話をするのですから、言葉を使うという訓練が全くされていないわけです。そういう意味で、私は、日本の医学教育を改良するためには、医師のコースを持つ前に、リベラルアーツのコースをとることがどうしても必要だということで、アメリカ制のメディカルスクールを聖路加にもつくりたいという気持ちを持っております。今の古い大学の制度に対して、私が新しいことをやろうと言っても、日本に2つのチャンネルの医学部の学校があるということになると、古い帝国大学の先生方は反対しますから、この反対を抗して私が成功するかどうかというのは、非常に難しいわけであります。今、聖路加は聖路加看護、4年制の看護大学があります。高校を出て4年。これもリベラルアーツはやっていないわけですね。そうしてナースになっているわけでありますが、このようなコースをもっとリベラルアーツを、医者になるにも看護士になるにも経験したいという気持ちを持って、今非常に努力して、できれば聖路加国際病院、それから聖路加看護大学というのではなくて、聖路加の学校法人をつくって、その中に医学部と看護学部をつくれればよいということで、難しい多難の道ですが、文部科学省と副院長が今、折衝しているわけであります」

 メディカルスクール構想は、日野原先生の悲願であった。将来、聖路加と立教大学が連携する形でのメディカルスクールの創設の道筋を、日野原先生の遺志を引き継ぎながら、描いていきたいと願っている。

 日野原重明先生のこの地上での実に105年に及ぶご生涯とお働きに心から感謝しつつ、先生の魂の平安を祈りたい。

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