【宗教リテラシー向上委員会】 わたしは宗教多元主義者ではない? 川島堅二 2017年10月11日

 宗教多元主義の主唱者は英国の神学者ジョン・ヒックである。彼がこの立場を表明したのは1980年『神は多くの名前をもつ』においてだ。すでに40年近い月日が流れた。この間、ヒックの主要著作の多くが邦訳され、また日本基督教学会などでも幾度か、この関連テーマが取り上げられたが、この主張は日本のキリスト教界に根付かないまま今日に至っている。

 その理由は、この主張が難解だからではなく、逆に、古くから複数宗教が混在する日本に生を受けたものには「今さら感」が先に立ってしまうからかもしれない。古い道歌「分け登る麓の道は多けれど同じ高嶺の月を見るかな」を引いて、「つまるところこれでしょ」と読まなくても分かっていると言わんばかりの反応。これは特定の信仰を持たない人に多い。まじめな信仰者からは、「どの宗教も目指すところは同じなどというのは無責任。これでは伝道できないし、教会も建たない。そもそも個別の宗教の救いを真剣に信じて生きている人に失礼」と言われる。

 いずれにせよ見落とされているのは、宗教多元主義が神学的主張であるという点だ。自身は具体的宗教団体に帰属しないで「同じ高嶺の月を見るかな」と達観する宗教哲学的主張ではない。そうではなく、キリストに救われ、具体的な教派教団に身をおきその責任を担いながら、他の偉大な伝統を持つ諸宗教、とりわけ仏教やイスラム、ヒンズー教などの世界宗教との関係性を、真剣かつ誠実に思考した末にたどり着く一つの神学的立場の表明、それが宗教多元主義である。

 ある人が「わたしは共産主義ではない」という場合、その含意するところは、唯物論者や無神論者ではないという思想信条の表明から、政治的立場の表明として、自分は共産党員ではない、むしろ無党派、だが今度の選挙では共産党に投票するといった妥協的な立場まで、おそらく無数の選択肢が考えられるだろう。

 しかし「わたしは宗教多元主義ではない」といった場合には、残る選択肢は二つしかない。排他主義か包括主義である。排他主義とは自分の帰依する宗教のみを真理とする立場。包括主義は他宗教も真理の一部を含むが完全な真理は自分が帰依する宗教と考える。これらに対して多元主義は偉大な伝統宗教いずれも真理を含み優劣はつけられないとする。この三つを、特定の宗教に帰依する人が他宗教に対してとり得る関係性のいわば理念型としてヒックは提唱したのである。

 したがって、「わたしは宗教多元主義者ではない」という人は排他主義者か包括主義者のどちらかということになる。今日、排他主義を選択する人は破壊的カルト信者か原理主義者で、少数派であろう。大多数が包括主義の立場をとることになるのではないだろうか。しかし、私見では包括主義もソフトな排他主義に他ならない。

 例えば親鸞とルターの類似は多くの神学者や仏教学者によって論じられている。キリスト教の神学者カー ル・バルトによれば、同じ恩寵宗教でも親鸞の浄土真宗には「イエス・キリストの名」が欠如している。しかし、浄土真宗の立場に立てば、ルターには「南無阿弥陀仏」の六字がないということになろう。どちらがより包括的で完全な真理かを競うことは無意味な水掛け論である。わたしは数年来ヒックの思索の跡をたどりながら、消去法によって多元主義支持の立場に到達したが、宗教の未来はここにこそあるという確信をいよいよ強めている。

川島堅二(農村伝道神学校教師)
 かわしま・けんじ 1958年、東京生まれ。東神大大学院、東京大学 大学院、ドイツ・キール大学留学。博士(文学)。駒場エデン教会副 牧師、相模原南教会牧師、恵泉女学園大学教授・学長・法人理事等を 歴任。本年4月より農村伝道神学校教師。専門は宗教哲学、組織神学。 最近の研究関心は、宗教多元主義、複数宗教経験、トランスリリジャ スライフの実践。

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