【映画評】『我は神なり』 水底で対峙する牧師と悪魔 2017年10月21日

 一人の青年牧師が、ダムの建設計画により水没を運命づけられた村へ到来する。彼はこの寒村を舞台に宗教詐欺を企むインチキ教団に騙され、その尖兵として利用されている。こうして始まる韓国発のアニメ映画『我は神なり』 は、近作『新感染ファイナル・エクスプレス』が本国では社会現象となったヨン・サンホに固有の昏い世界観が、最も際立つ作品となっている。ダム建設に伴う補償金を狙う教団に利用され、奇蹟の演出すら強要される青年牧師チョルウ。映画には主人公として彼に加えてもう一人、やさぐれ中年男ミンチョルが登場する。ミンチョルは家庭の内外で暴力を働き、娘が貯めた進学資金を賭博で蕩尽するアル中の《悪魔に憑かれた男》として、誠実な青年牧師とは対峙的に描かれる。牧師はその実直さが災いし、より規模の大きな悪事へと手を貸していく。かたや中年男ミンチョルは家族を地獄へ突き落としながらも、ただ一人教団の悪事を直観的かつ正確に見抜いていく。

 ダム底への沈没が予定される寒村は、韓国社会の今を象徴する。財閥に経済を牽引させ、一極集中により急成長を遂げた韓国では、反面で逼迫する地方の危機もしばしば叫ばれる。古き良き伝統を保存する器とみなされた農村共同体の崩壊は人々を窒息させる。失われゆく精神的基盤の代補として、村人は心の依り処を新たな信仰へと求める。生活共同体の危機に際し外部から宗教団体が殺到する様は、災害時など日本でもおなじみの光景だし、生存本能に根ざすその狂信ぶりも一概に否定し切れるものではない。むしろ中東のイスラム過激派や急進的米福音派が見せる熱情からミャンマー仏教徒勢力によるロヒンギャ排斥まで、傍目には狂信 としか映らない振る舞いに人々が染まる様こそ、世界各地で今日観られる地獄絵図そのものだ。信仰的誠実さと人々の放つ欲深さとで板挟みになり、青年牧師は次第に追い詰められていく。警察からも相手にされず社会から疎外され孤立するごと、粗暴な中年ミンチョルの目に映る真相は明晰になっていく。二人の対峙は次第に圧を高め、《牧師vs 悪魔》の烈しい対決構図を描き始める。

 映画に描かれる韓国農村の「伝統的でのどかな故郷」から「不気味さを宿す田舎」への変容は、2003年のポン・ジュノ監督作『殺人の追憶』を嚆矢とする。國村隼の怪演が今年日本でも評判を呼んだ『哭声/コクソン』は度重なる聖書引用を経て、農村へ襲来する悪魔と土地神の対決へと至る。それらが描くのは経済発展から長らく取り残され、人々の関心から捨て置かれた内なる周縁としての地方の呻きだ。そして『我は神なり』、ここでこの呻き声を体現するのは果たして牧師か悪魔か。監督ヨン・サンホの鋭い洞察から圧し出される終幕図はあまりにも迫真的でかつ、震えるほどに透徹している。

公式サイト:https://warekami-movie.com/

 

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