【宗教リテラシー向上委員会】 近代と宗教が機能するために 波勢邦生 2017年11月11日

 情報とテクノロジーの土石流に流されるままの現在、人類最古の文化「宗教」がいかに時代と向き合っているのか、本連載も4巡目となって、それぞれの顔が見えてきた。期せずして「宗教と近代の相克、調和」という主題が浮上している。日本では切り離されがちな二つの事柄だが、本欄が読者にとって「宗教」観察用メガネとなればいいと思っている。

 最近、生活費を稼ぐために重度知的障がい者のグループホームでの生活支援員を始めた。炊事、洗濯、清掃、要するに「共に暮らすこと」が仕事だ。知的、身体的なハンディキャップを担う数人が楽しく生活している。

 例えばオバマ大統領にそっくりなヨシダさん(仮名)はプロ野球と天気予報が大好きで、いつもその話。全介助が必要な車椅子のサチオさん(仮名)は、作業所のパンを売りに行くとテンションがアガる。

 サチオさんは日常のすべての動作に支援が必要だ。例えばトイレ。生きる限り誰もが経験することだが、この時もサチオさんは助けを必要とする。同僚が話しかけながら、彼が用を足すのを手伝う。賀川豊彦が語った「人の尻ふきする贖罪愛運動」ということばを思い出す。問答無 用、字義通りの意味である。

 サチオさんは話すことができない。意思表示はたまにしてくれる。彼の前では、あらゆる言語がほぼ無効化される。言語偏重型プロテスタント出身としては、当初恐れを感じた。言葉という共通項、いや「言いわけ」が通じない。サチオさんは罵倒されても罵倒し返すことはできない。殴られても殴り返すことができない。あらゆる場面でこちらの暴力性が露わになる。彼はその存在で以て、向き合う者を試す。成長、自己実現、西洋近代自我という語の空虚さが際立つ。

 もちろん教育され成長した「西洋近代自我」という自律人格の集合が近代社会システムを維持し、人々を包摂している。モルトマンが著書『希望の倫理』で語るように、「あらゆる国際条約の土台にあるもの、つまり生き延びようとする意思」こそが、法となり人々の生活を守るのだ。しかし、サチオさんを含め、多くの人にとって「西洋近代自我」は重過ぎないか。ぼく自身にも重過ぎるものだと感じている。

 近代は、政治経済に精通し投票できる強い人格を求める。一方、宗教は、強い主体の重さを担えない、あいまいな弱い人格を認める。人間の強さへの「信仰の違い」と言っていい。また、生きること自体が罰となった人々やモルトマンが自爆テロを批判して言う「生き延びようとする意思を捨て去ってしまっている」人々には、近代の言葉は届かない。無論、いかなる暴力も肯定できない。しかし、少なくとも宗教は、近代が排除する彼らの生死の形式と意味を与えるものとして機能したのだ。

 現実的には、誰にとっても近代的システムと宗教的ケアの両方が必要だ。最良の意味で近代と宗教が機能するには、互いが批判的かつ建設的な関係を保つ必要がある。近代法と宗教法の一致点を積極的に探らざるを得ない。そこにこそ、ヨシダさんが笑える生活があり、そこから「人の尻ふく」一歩が踏み出せるからだ。その一歩先に、多くのサチオさん(ギリシア語でマカリオイ、幸いな人々)と「共に暮らす」生活が来る。

 その時、病人を世話し囚人を訪ね、貧困援助し自活を促す「教会の義務」は、近代的社会福祉制度と共に、新約聖書を成就する。「みなしごや、やもめが困っているときに世話を」することは、神の御前にある宗教の特質であり、近代社会の誉れではないか。

波勢邦生(「キリスト新聞」関西分室研究員)
 はせ・くにお 
1979年、岡山県生まれ。京都大学大学院文学研究科 キリスト教学専修在籍。研究テーマ「賀川豊彦の終末論」。趣味:ネ ット、宗教観察、読書。

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