【教会建築ぶらり旅】 カトリック神田教会■寓意の薫香 藤本 徹 2017年11月11日

 神田神保町の古書店街は、週末ともなれば朝から賑わうが、通りを1本隔てると休日のオフィス街に特有の静けさが辺りを占めている。カトリック神田教会聖堂はそうした一画に建つ。今や周りのビル群から見下ろされる形ではあるが、昭和初期には至近の本郷台地南端から東京湾が見渡せたというから、この重厚な外観をもつ聖堂はかつてその威容により一帯を圧していたことだろう。

 その外観から醸される重厚さに反して、半円アーチのヴォールト天井が主廊を貫く内観は、驚くほど軽快で自由な印象を伴う。側壁に配された各々7枚のステンドグラスを通した自然光が内部空間を思いのほか明るく照らすのは、この規模の教会堂にしては壁の厚みがないためで、細い柱も内へ注ぐ光を遮ることがない。これは石造の外観をもちながらも、本聖堂が実際には鉄筋コンクリート造に拠っているからで、ルネッサンス・ロマネスク様式の建築が本来そうであるようには壁が上層の重量を支える必要がなく、柱は太さを抑制できる。建築装飾について付言すれば、外壁上端部を飾るロンバルド帯風の軒蛇腹(のきじゃばら)は本連載で初めに扱った今村天主堂に共通し、中層部には四葉を図案化した胴蛇腹が巡らされている。

 また、例えば主廊と側廊を隔てる計12本の列柱は使徒と神の民を表し、7枚のステンドグラスはカトリック教会における七つの秘跡を象徴するなど、聖堂の構造自体にアレゴリカルな意匠が多く施されている。1928年竣工の現聖堂が鉄筋コンクリート造とされたのは、関東大震災による旧聖堂の消失を踏まえてのことだった。その堅牢さの副産物として、伝統的でありつつも自在な設計意図を具現化するという稀有な個性が本聖堂にはもたらされた。

 前回扱ったカトリック築地教会との対照は諸々興味深い。まず神田教会の開堂は東京のカトリック教会としては最も早く築地教会と同じ1874年。また築地教会は東京大司教区の初代司教座聖堂となったが、第二次大戦時の関口教会焼失により、神田教会も戦後の12年にわたり仮司教座聖堂として用いられた。

 旧聖堂が共にゴシック様式であり、関東大震災の焼失後再建されたことも共通する。その際ゴシック様式を共に捨て去ったことからは、震災直後の新時代への希望がうかがえる。東京大空襲時、木造モルタル造の築地教会は米軍の爆撃回避により難を免れ、神田教会は火の海に囲まれながらも鉄筋コンクリート造ゆえに耐え切ったことは天の配剤の妙と言うしかない。

 旧三菱財閥による地所占有の北限が旧日本橋川とされたことは、神田から水道橋周辺に独特の風景をもたらした。手狭な敷地に無理やり7、8階の中小ビルを生やしたり、古民家がビルの谷間に残されていたりする。大規模な再開発計画がまとまりにくいこうした環境こそが古書店街の活況を呼び、戦間期の近代建築を多く保存する現状を導いた。カトリック神田教会聖堂は今日、一帯に散在するこれら近代建築群のかもす薫香(くんこう)を束ね上げる役割を果たしている。筆者が訪れたミサは人も疎らで、外部の喧騒が嘘のような静謐(せいひつ)が堂内を充たしていた。ひたすらにスクラップアンドビルドを繰り返してきた昭和の日々をこの静謐がくぐり抜け今なお息づいていることの、文字通りのありがたさを思わずにはいられない。

【Data】カトリック神田教会聖堂
竣工:1928(昭和3)年
設計:伝マックス・ヒンデル
構造:鉄筋コンクリート造・三廊型バシリカ式
所在地:東京都千代田区西神田1‒1‒12

藤本 徹
 ふじもと・とおる 
埼玉生まれ。東京藝術大学美術学部卒、同大学院 美術研究科中退。公立美術館学芸課勤務などを経て、現在タイ王国バンコク在住。

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