【演劇評】 『朝のライラック(ダーイシュ時代の死について)』  二項対立的思考が導く単声性を避けるため 2018年1月21日

二項対立的思考が導く単声性を避けるため

 インド中部の支援地域に住む子どもたち台はシリア辺境部、架空の村である。砂漠に囲まれ、「イスラム国」に支配されたその村で、彼らの武力を嵩にきた村の長老が、自らの欲望のため主人公の女性教師に夫の処刑か離婚かの選択を迫る。自殺を禁忌とするクリスチャンとムスリムの夫妻がたどり着く究極の決断。死へ向かう2人の鬼気迫る会話が、鋭い生への呼びかけと化す展開に震撼する。

 パレスチナ人劇作家ガンナーム・ガンナームによるこの戯曲『朝のライラック(ダーイシュ時代の死について)』は、世界の紛争地における演劇の現在を伝える試み「紛争地域から生まれた演劇シリーズ」9年目の演目として昨年暮れ、東京で上演された。

 国際演劇協会日本センター主催の本企画は、今この瞬間も世界のどこかでくり広げられている紛争が生む悲喜劇を、演者の声や肉体という生のメディアを通して観客へ体感させる。興味深いのはこの試みが、毎回新鮮な戯曲と日本人俳優の構成により上演される〝朗読劇〟形式であることだ。

 かつてロシアの思想家ミハイル・バフチンはそのポリフォニー論で、詩や演劇における言葉の本質を単声的と捉え、小説の多声性(ポリフォニー)と対置した。

 この構図は、実はそのままギリシア古典を基盤とするヨーロッパの詩や演劇と、ロシアのそれが内包する非ヨーロッパ性との対峙と相似形を成していた。

 「紛争地域から生まれた演劇シリーズ」では、中東をはじめフィリピンやアフガニスタン、ナイジェリアなどさまざまな地域の新作戯曲が扱われてきた。日本人俳優のみ、日本語のみによる、人種や宗教風俗のまるで異なるドラマの再現から受ける表面的な違和感は、開演後すぐに訪れる作品への没入により不思議なほど雲散霧消する。

 そして衣装や美術の完成された舞台劇ではなく朗読劇であることが、表現の抽象度をより高めていく。そこで起こるのは、紛争により人生を翻弄される最中にある現役劇作家の作品世界と、現代日本の日常を生きる役者たちの生身との衝突が呼び起こす不協和音であり葛藤であり、交感だ。

 明治以来、日本人は総じて欧米こそを唯一向き合うべき他者とまなざし、その非対称の二項対立図式のもと自らの思考と感性とを磨き上げて来た。しかしこの交感は、そのような構図が描く単声的な常套的表現にはなかった多声性そのものの芽生えと言える。

 今回上演されたもう一つの演目『ハイル・ターイハ(さすらう馬)』は、ダマスカス郊外の山腹に暮らすベドウィン母娘の半世紀を、アラブ古典マカーマート形式のもとクルド人の夫やパレスチ ナ人教師などシリア社会の周縁部を生きる人々との交流を通して描く。そこではベドウィンの話し言葉の街での〝通じなさ〟が、小鳥の歌声により隠喩される。昨今目立つ社会の右傾化は、グローバル化による貧富の拡大や人の流動化への反発という点で、現在進行中の紛争の多くと通底する。この意味で日本人が日常感覚で捉えがちなほど、紛争地の惨劇は遠い出来事とはもはや言えない。

 その一方、気分だけで語られる「多様性の尊重」「他者への寛容」といった言葉は発話者の良識や誠実さの確認へしか向かわず、その平板さの虚構は犠牲を隠蔽する。自らの発話する言葉のはらむ、無自覚の排斥性。日本語文脈による二項対立的思考が導く単声性。これらを見据え、少しでも回避するためにさらリフォニックな現場へ身を曝すこと。

 過去数年にわたり「紛争地域から生まれた演劇シリーズ」を観劇する中で感得されたのは、表現と交感をめぐるそのような可能性である。(ライター 藤本徹)

 作:ガンナーム・ガンナーム(GhannamGhannam、ヨルダン/パレスチナ)
演出:眞鍋卓嗣(劇団俳優座)

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