【宗教リテラシー向上委員会】 「大きな家族」のぬくもり見直されるべき時代 池口龍法 2018年2月1日

 昨年の11月以来、訳あって 子ども2人を1人で育てている。いわゆるシングルファザーである。子どもは小学生と幼稚園児なので、まだまだ手がかかる。

 わたしが「明日が原稿の締め切りだからお父さんは忙しい」と言っても、次の瞬間には膝の上に乗っかろうとする。わたしも聖職者とはいえ1人の人間。イライラが募るとついカッとなり、怒声をあげてしまう。子どもは泣きじゃくる。その泣いている姿を見て「しまった!」と思うけれどもう遅い。他になだめてくれる大人がいない以上、わたしが平謝りするしかない。「ごめんな」と抱っこして、ひとしきり遊んで、ようやく落ち着いたころに時計を見ると「もうこんな時間」と愕然。そんなグダグダな日常を過ごしている。

 「もっと仕事をセーブしたら?」 などと気遣ってくれる知人もいる。気持ちは本当に嬉しいが、ただでさえ人間関係の希薄な時代である。仕事や地域づきあいをとことんセーブした先には、社会的孤立が待っているような気がして、その恐怖感たるや半端ない。とはいえ、1人で育児、家事、仕事をすべてこなしていくのは限界があるのも事実。どのあたりが良いバランスなのか、見極めはなかなか難しい。

 幸いなことに、現在までのところ、わたしは不思議なぐらい仕事をセーブしていない。これはひとえに、いま住職をしている龍岸寺に多くの人たちが出入りしていて、頼まずとも育児を手伝ってくれているからだろう。

 お寺と檀家との付き合いは、もともとは「大きな家族」という温かい言葉で語られた「家」を大切にする感覚は、各家庭の中だけに留まらず、お寺との関係を通じて社会全体に行きわたっていた。それがいまでは、檀家づきあいは「しがらみ」と敬遠される。多くのお寺は社会的機能を喪失し、単なる先祖供養の儀礼の場になっている。

 しかし、龍岸寺では、浄土系アイドル〝てら*ぱるむす〟が顕現するなど、若い世代が日々やってきては、仏教を通じて自分自身を高めようと努めている。わたしの子ども2人も、アイドルの新曲ができたり、ライブが行われたりするのを楽しみに生きている。わたしが子どものいたずらを叱ったら、落ち込んでいるところをアイドルたちが慰めてくれたりする。龍岸寺は、一つのぬくもりある家族的共同体なのである。

 このような体験を経て、お寺の今日的役割について、わたしはいま再考している。 日本の伝統仏教は、「家の宗教」であり、仏壇の位牌にもお墓にも「○○家先祖代々」と刻まれている。このシステムが機能不全に陥るだろうことは、第二次世界大戦後に民法が改正されて「家制度」が廃止されて以降、さかんに指摘されてきた。

 各仏教教団は「家の信仰から個の信仰へ」とうたって改革を掲げてきたが、「家」ベースでの信仰という形態は変わらなかった。したがって、「うちは浄土宗ですが、娘はキリスト教徒です」という奇妙な二重構造が存続している。

 しかし、仮に一人ひとりが信仰心を確立すれば、それですべてが完結するほど、人生はなまやさしくない。片親での育児は泣きたくなるほど辛い。ご近所を見渡せば、日々を何とか過ごしているご高齢のひとり暮らしもたくさんいる。

 「家」の意識が希薄な時代だからこそ、孤立しそうな人々をつなぐ地域の紐帯としての役割を、お寺や教会が担うべきだろう。気軽に集まれて、お互いに頼り合える場が、いま求められている。檀家制度がかつて誇っていた「大きな家族」のぬくもりが、見直されるべき時代だと思う。

池口龍法(浄土宗龍岸寺住職)
 いけぐち・りゅうほう 1980年、兵庫県生まれ。京都大学大学院中退後、知恩院に奉職。2009年に超宗派の若手僧侶を中心に「フリースタイルな僧侶たち」を発足させ代表に就任、フリーマガジンの発行などに取り組む(~15年3月)。著書に『お寺に行こう! 坊主が選んだ「寺」の処方箋』(講談社)/趣味:クラシック音楽

 

連載一覧ページへ

TO TOP