【宗教リテラシー向上委員会】 きっかけがゲーム機目当てであっても… 池口龍法 2018年3月11日

 4月に小学生になる息子が、あまりに「ニンテンドースイッチ」をせがむので、「勤行を100回したらご褒美に」と約束した。すると息子は、がぜん、やる気を出した。わたしが本堂でお経をあげる時にも、檀家さんのお宅に行く時にも、一緒についてくる。本稿を執筆している時点で、読経回数は45回に達している。

 ニンジンをぶら下げて読経させるこの俗っぽい教育に賛否はあるかもしれないが、わたしにはそれなりの思惑がある。仏教都市京都には、各宗派の本山があり、それぞれが運営する幼稚園がしのぎを削って通園バスを走らせている。キリスト教系の通園バスもある。他の都市の状況は知らないが、おそらく同様であろう。宗教社会学者の大谷栄一氏は、「各教団は幼児教育に励んで来たのに、こと戦後に関しては不当なほどに評価が低い」と指摘する。政教分離の原則にとらわれすぎて、宗教のある風景を見て見ぬふりをする悪癖から、何とか解き放たれないものかとわたしも思う。

 わたしの息子も仏教系の幼稚園に通っている。登園するとまず「阿弥陀さま、おはようございます」と頭を下げる。このような教育はなかなか味のあるものだと思う。しかし、小学校になると事情はまるで変わり、宗教系の学校は数少ない。わたしの息子が今度入学する小学校も公立だから、うってかわって宗教的には無味無臭の空間で日常生活の大半を過ごすことになる。やむを得ないのは分かるが、やはり一抹の不安が拭えない。

 日本のお寺の住職は、その功罪はともかくとして、世襲される慣例にある。わたしが今のうちに読経に習熟させるのは、慣例通りに我が子が僧侶を志した時にまるでお経を知らないのはマズいとの親心もある。だがそれ以上に、仏教が深く根差している日本のお寺で育ちながら、仏教をたしなみとして習得しないのはもったいないと思うからである。

 「阿弥陀くじ」が阿弥陀如来から放射状に放たれる後光をモチーフにするのはほんの一例だが、日本の生活は意識せずとも仏教的である。あえて分離などせず、仏教をうまく生かしていく方が、暮らしは豊かになる。この観点から新しいライフスタイルを提案するのが、通販大手会社のフェリシモである。同社には「おてらぶ」があり、ブッダの頭部をモチーフにした「らほつニットキャップ」や般若心経の一字一字をイラストで描いた「絵心経マスキングテープ」などのグッズを開発して、話題を集めている。しかし、これほど宗教に寛容な企業はまれである。

 学校も企業も宗教と距離を置いている上に、ほとんどのお寺は教会のように日曜礼拝の時間も設けないから、僧侶とのコンタクトは葬儀などの限られた場しかない。せっかく日本文化に行き渡っている仏教も、命を持ちようがない。にもかかわらず、仏教の教えにある通り、娑婆世界は生老病死や愛別離苦などの苦しみに満ちている。いくら仕事に精を出しても、リストラや役職定年などが明日訪れるかもしれない。現世のロジックの中で生きるのはどこまでも辛く、宗教の救いも見出しがたいところに、現代社会の閉塞感が露呈している。

 この閉塞感を打ち破る手がかりとなるなら、きっかけがゲーム機目当てであってもかまわないと思って、わたしは息子と読経している。政教分離は、政府の原則のもとに宗教を閑却することではない。世俗社会のルールを重んじつつも神仏の眼差しのもとで前向きに生きていく情操を、できれば幼少期から、多くの人々と共有できる社会を創っていきたいと願う。

池口龍法(浄土宗龍岸寺住職)
 いけぐち・りゅうほう 1980年、兵庫県生まれ。京都大学大学院中退後、知恩院に奉職。2009年に超宗派の若手僧侶を中心に「フリースタイルな僧侶たち」を発足させ代表に就任、フリーマガジンの発行などに取り組む(~15年3月)。著書に『お寺に行こう! 坊主が選んだ「寺」の処方箋』(講談社)/趣味:クラシック音楽

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