【映画評】 『馬を放つ』 草原で十字を書き入れること

 キルギスの伝統詩は語る。〝馬は人間の翼だ〟と。

 映画『馬を放つ』は、騎馬遊牧民の魂がキルギスの大地を駆る傑作だ。そして同時に、現代社会に暮らすあらゆる人々の抱える《引き裂かれた心》を描く作品でもある。構成の切り詰められた無駄のなさ、研ぎ澄まされた映像の連なりは、現代の神話と言うにふさわしい表現性を獲得した。

 本作の主人公は、遊牧民の習俗を色濃く残した暮らしを送る、古風で頑固な一人の男だ。馬の扱いに長けることから「ケンタウロス」とあだ名されるその男が、夜中に厩舎へ忍び込み、高価な競走馬を盗み出す場面から物語は幕を切る。男は馬を売りさばくでもなく、奔放に走らせたうえ草原にただ放つ。その動機は謎である。男の親類である競走馬の馬主は、中央アジアへ押し寄せる資本主義の荒波をも巧く乗りこなすその器用さから、一計を案じて犯人を捕らえる。犯人が誰かを知った馬主はしかし、「ケンタウロス」を単純には憎めず裁けない。

 馬主からの糾弾に男は初め沈黙を貫くが、やがて堰を切ったように訴え出す。

 「かつて人間は馬の友であり翼であった。しかし富と権力のため自然を壊し、道具のように馬を貶める俺たちは、すでに翼も心も失った。怪物になってしまったんだ」

 村の合議により、懲罰の一環として男はメッカへの巡礼を課せられる。しかし今はモスクとして利用される村の集会所で、イスラームの礼拝を穢すトラブルを起こし、今度は若いウラマー(イスラームにおける聖職者)から糾弾されることになる。このような場面における宗教描写の緻密さは、本作の大きな見どころの一つだ。たとえば男の排除を主張するウラマーの論理に、村の人々は口々に反発する。建前としてはイスラーム信仰を受け入れるこの村でも、人々の心の襞にまでは教理が浸透していない様子がこうして描かれる。

 またロシア帝国時代からの名残りとして、聖母子のイコンを掲げる一行も登場する。主人公の男はロシア正教の習いに則るその行列を、不思議そうにつかのま眺める。すべての宗教と民族の個別性とを否定した共産主義時代に抑圧された聖俗のあらゆるエネルギーが、このキルギスの辺境村においても再燃し沸騰する。天山山脈を背景に、パミール高原の大自然がそれら人の営みすべてを鷹揚に包み込む。

 その一方家庭にあっては、5歳になっても言葉を話そうとしない息子に向かい、男はキルギスの英雄譚を語りつづける。馬の守護神カムバルアタと人との関わりをめぐるその語りは、映画の後半で男自身の道行きへと重なりゆく。本作の核となるこの英雄譚の基層には、約20万行詩から成るキルギスの英雄叙事詩『マナス』の存在がある。チベットの『ケサル』、モンゴルの『ジャンガル』とならび三大史詩とも称えられる『マナス』は、文字を持たなかったキルギス民族の語り部マナスチたちにより、長らく口承により伝えられてきた。

 グローバル経済の波は市場の単一化を通じ、ソ連支配とは別の仕方で各民族集団の伝統や個別性の無効化を漸次推進するが、そのゆえにかつて夢みられたEUやASEANなど超国家共同体への幻想とも裏腹に、国境による差異の確定こそ一層強化されゆくのが今日の現実だ。IMFから中央銀行最高顧問として首都ビシュケクへ派遣された田中哲二氏はその著書で、キルギスの国民作家チンギス・アイトマトフが大統領就任式の際、『マナス』原典を捧げもつ儀仗兵を従えて登壇し演説を行った様を伝えている(『キルギス大統領顧問日記』中公新書)。

 経済論理への従属を強いられ、各々の自我をその根幹から引き裂かれつつある人々の心の拠り所として、この21世紀現代にあって民族の英雄譚が語られ直し、なお引き継がれる。そうして不安定化する内面を抱える人々の、声にならない叫びを『馬を放つ』主人公の慟哭は如実に反映する。

 数百本に一作、観終えたあと席からうまく立てなくなる映画に出逢う。言葉を失わせる表現力に圧倒され、あまりにも深く精神を揺さぶられ、体の使いかたすら一瞬忘れ去ってしまう。『馬を放つ』の鑑賞は筆者にとってそのような体験だった。ちなみに主人公がギリシア神話中の名で「ケンタウロス」と呼ばれることに違和感をもつ向きに対しては、シルクロードの要衝に位置するキルギスが、有史以前より文明の十字路であったことを指摘したい。たとえば中国における『マナス』研究の最前線では、『オデュッセイア』などギリシア最古の英雄叙事詩との相互影響に関する分析も進んでいるという(若松寛訳『マナス壮年篇 キルギス英雄叙事詩』平凡社東洋文庫・解説)。

 20世紀を代表する建築家ル・コルビュジェはかつて、旧共産圏を含む現代社会における人々の営為をめぐり、こう述べている。

 「衰弱し、金銭によって腐敗させられたわれわれの社会に必要なのは、各人の心の底に+(プラス)を書き入れることだ。それで十分であり、それがすべてだ。それは希望である」(松隈洋『残すべき建築』誠文堂新光社)

 「ソヴィエトにおいては何ものの新しくありえない。しかしその社会には+が支配しており、それがすべてである。われわれの社会に必要なのは、各人の心の底に+(希望)を書き入れることだ」(同)

 『馬を放つ』で監督・脚本・主演を担当したアクタン・アリム・クバトは、草原の只中にある文明の十字路において今日も、ただ質実に十字の希望を書き込みつづける。映画の中盤、馬主からの糾弾に抗し主人公が堰を切ったように語りだす場面は、本来の脚本では沈黙を貫くはずだった。しかし、主人公の男ケンタウロスに憑依され号泣し出したアクタン・アリム・クバトは、己の口からほとばしり出る言葉の制御が効かなくなったという。この鬼気迫る熱演に、ぜひ映画館で触れていただきたい。その衝撃をまともに受けた全身は間を置かず、観客席の暗がりで草原の中空から吹く風を感じることになるだろう。(ライター 藤本徹)

『馬を放つ』 “Centaur”
公式サイト:http://www.bitters.co.jp/uma_hanatsu/

3月17日より、岩波ホールほか全国順次公開中。

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