【宗教リテラシー向上委員会】 文化を耕す自由な場所を 波勢邦生 2018年5月11日

 「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」(創世記2章15節)

 この「耕す」という語は「仕える」とも訳せる。直後、人は罪ゆえに楽園追放となるが、贖われた歴史の果てに「エデンの園」は「神の都」へと変貌する。文化を耕し、人々に仕えた結果が、再び神と共に住まう都市なのだ。

 最近「場所と自由」の関係を考えている。

 今月20日に贔屓の喫茶店「ヴィランジュ」が閉館する。大阪日本橋で友人が経営するメイドカフェだ。そこでは来店を「ご帰宅」、店を出るのを「お出かけ」という。外国人観光客、在日フランス人やロシア人、小説家、研究者、公務員、サラリーマン、僧侶など、数多の老若男女がご帰宅する、いわば「秘密基地」だった。職業も名聞も関係なく、自由に語り合える「サロン」なので、閉館が惜しまれてならない。この場所が生み出した関係を大切にしつつ、給仕人たちの今後に幸多かれと祈るばかりだ。

 「自由な場所」は「文化を耕す自由」の存在を意味する。多種多様な人々が顔見知りとなり、いつの間にか自分の日常を超えた範囲と出会う。未知の分野を知ることが文化の幅を広げる。森羅万象の新たな理解や解釈が深まっていく。それは人間に託された「神の継続的創造」なのだ。

 先日、中国人留学生に大学構内を案内したら「本当に自由なんですね」と驚いていた。難民キャンプのような「吉田寮」の前を通り、学生新聞に踊る「革命」の文字、乱立する「立看板」を見ての感想だった。中国の大学ではあり得ないらしい。

 1913(大正2)年建築の「吉田寮」は存続の危機にある。大学側は安全対策を理由に、建て替えに躍起だ。一方、学生側は1982年以来、文化財としての建築物保護を求め、居場所を守るために大学と交渉中である。安全なかたちで「吉田寮」が残ることを願う。

 「文化を耕す自由な場所」のためには必ず労力がいる。例えば喫茶店で給仕するメイドたちがいなければ、その場所は成立しない。誰かがコストを払い、支えてくれるからこそ「場所」が守られ「自由」が語られる。仕えることは耕すことなのだ。

 その意味で、どんな仕事でも「神の継続的創造」に連なっている。無限の神は、人間を有限なものとして創造した。それは無限の「量」を限定することで「質」に転換し、切り出して形を与えることだ。有限性は「価値の喪失」を意味しない。無から有へと造られたこと自体が「価値」なのだ。

 誰もがその「価値」の中で仕事をして世界を耕している。政治家も無職も、聖職者もセクシー女優も、その存在で以て誰かの居場所となっている。そこから文化が芽吹いて実る。「有限」は「無限」の噴出孔となり、やがて神と人が共に住まう「新しさ」が現れる。

 宗教と宗教家に求められているのは、そんな「場所と自由」をつなぎ「耕し仕える」仕事だ。「文化を耕す自由な場所」という公益性ゆえに、宗教法人への非課税措置がある。裏を返せば、このコストを理解せず、内輪のサークル化した教会や寺社仏閣は、近代社会において「宗教」を名乗るに値しない。

 例えば、イエス、あの御方ならば「タイガー! ファイヤー! サイバー!」と、地下アイドルの現場で両手に8本のペンライトを握りしめ、誰よりも激しくオタ芸を打って文化を耕すだろう。こうして場所が「新しさ」をつくり、文化が萌え出でるのだ。

 時は満ちた。さあ、文化を耕す自由な場所のために「お出かけ」しよう。

波勢邦生(「キリスト新聞」関西分室研究員)
 はせ・くにお 
1979年、岡山県生まれ。京都大学大学院文学研究科 キリスト教学専修在籍。研究テーマ「賀川豊彦の終末論」。趣味:ネ ット、宗教観察、読書。

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