【映画評】 『友罪』 赦されざる罪との無条件の出会い Ministry 2018年5月・第37号

 1997年、神戸市須磨区で起こった連続児童殺傷事件。空き地や青いシートが残る、復興途上の神戸で暮らしていた筆者にこの事件は、疲れきったところを背後から鈍器で殴られたような、にぶい痛みをもたらした。そして少年Aが『絶歌』を出版した2015年の夏、私は閉鎖病棟で「人を殺してはなぜいけないのか」と日々問う16歳の少年と寝起きを共にしていた。テレビでは芸能人が「彼は反省していないじゃないか!」と叫ぶ。私は少年とぼんやりそのテレビを観ていた。看護師がうがいコップに淹(い)れてくれる、ぬるいインスタントコーヒーをすすりながら思った。「彼は反省していないんじゃない。反省『できない』のさ」

 あなたの出会った愛する人が、殺人犯としての過去を背負っていると知ったら? あなたはその人に、どう応えるだろうか。そもそも出会うことに「条件」は必要なのか。本作は出会いの根源性を問う。

 作中には二人の主人公が登場する。そのうちの一人は、かつて殺人を犯した元少年A。そんな彼と友になった、否、友になってしまったもう一人の主人公――かつて中学生だった彼は、いじめにあっている友を見捨てたという罪の意識にさいなまれ続けている。

 弟子たちはイエスに「赦されて」、それで済んだのだろうか。十字架へと向かうイエスを「この私こそが」置き去りにした──その事実を忘却できたのだろうか。彼らは復活したイエスに罰せられるどころか赦され、解き放たれた。罰という「とりあえずこれでひと区切り」がなかったからこそ彼らは、自分がイエスを見捨て、裏切ったのだという記憶を、生涯背負い続けたのではないか。パウロは自分が迫害し、血を流して死んでいった人間たちの断末魔に、あるいはうなされ続けたのではないか。本作品の主人公たちのように。

 元少年Aが自らの頭を、血が噴き出すまで石で殴り続ける場面がある。赦された弟子たちが殉教へと自らを駆り立てるその心の奥に、赦されざる自らを破壊しようとする衝動はなかったか。

 私たちは出会う。傷を負い、自らの過去を赦せずにいる人に。あまりの絶望に、笑うしかない人に。微笑みながら慟哭している人に。その人が過去に刑法に抵触していたとして、そうした人間をことごとくフィルターにかけ、出会いから削除してしまうことは、私たちを痩せ細らせてしまう。やましきものをすべて取り払った末に残る、ピュアでクリーンで、崩壊寸前の美しき人間関係。

 出会ってしまうことに、条件はない。

(牧師 K・N)

5月25日より全国ロードショー。

監督 瀬々敬久
出演 生田斗真、瑛太、夏帆、山本美月、富田靖子、佐藤浩市ほか
原作 薬丸岳/配給 ギャガ
2018 年/日本/ 129 分/カラー
公式HP http://gaga.ne.jp/yuzai/

©薬丸 岳/集英社 ©2018映画「友罪」製作委員会

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