【映画評】 『女は二度決断する』 女は二度死ぬ、 二度生まれる。 Ministry 2018年5月・第37号

 人間は絶望する。憎悪する。そして決断する。人間のこの普遍を昇華させた映画『女は二度決断する』が、この春日本公開されている。監督はファティ・アキン。トルコ系移民の子で、若干30代にして欧州三大映画祭のすべてで主要賞を獲得した、現代ドイツ映画を牽引する俊英だ。

 本作の主人公は、ネオナチ組織の爆弾テロでトルコ人の夫と子を失ったドイツ人女性である。警察は当初、事件をトルコやクルドなど外国人間の抗争と決めつけ、主人公に対し夫の麻薬取引やマフィアとの関連を詰問する。生き残った被害者であるドイツ人女性が、ドイツ警察によりさらに追い詰められるこの構図は、実際の事件をモデルとする。外国人排斥を唱えるネオナチによるテロ行為と警察の誤認捜査を巡っては、のちメルケル首相による謝罪へ帰結する「NSU事件」として世界的に広く報道された。

 監督ファティ・アキンは現実の事件を軸に、人々の差別感情に根差した社会病理の深層を、一篇の上質な物語へと編み上げる。だがそれも前半部までの話に過ぎず、彼の真価は後半部でこそ露わとなる。

 邦題にもあるとおり、終盤で主人公はある決断を二度下す。「衝撃のラスト」といった言葉で飾られがちな終盤における主人公の境地、そこへ至る失意や逡巡など後半の描写すべてが実は、欧米先進国の〝善き人々〟が今日抱えるイスラムへの偏見に対する痛烈な批判となっている。

 例えばイスラム圏で頻発する女性の自爆テロが、過激派組織の強制や洗脳によるものだという決めつけ。その偏見がもたらす思考停止。そこから生じる無自覚の憐憫、に駆動される差別的身振りが生む復讐と憎悪の連鎖。

 ファティ・アキンはしかし、こうした社会批判を声高には行わない。むしろ暗示にとどめ、個別の特殊状況を生き抜く個々人を質実に描くことで、その映像表現を普遍性の高みへと押し上げる。

 表現が普遍を獲得するということ、それはまたドイツの今日を描く本作が、どの時代地域の観客をも串刺しにするということだ。現代日本を生きる我々をもそれは貫く。一粒の雨滴に雲や大地が映り込むように、人間と世界の全体を一篇の映画に反映させるファティ・アキンの作品は、観客の内に己の可能性に対する信頼を呼び起こし、倫理的態度の新たな源泉のありかを示す。

 今日の日本を見渡せば、この5年でこの国の都市景観は大きく変わった。外国語の看板がかつてなく氾濫し、街の小売店員に外国人労働者を見ない日は稀だ。内需が既存市民で回らないこの変化は人口動態上すでに不可逆だが、なお変わり難いのは人々の心である。善人たる一般市民から受ける無自覚の蔑視を、日本で暮らすとりわけアジア圏出身の外国人で経験しない者はいない。

 『女は二度決断する』における「決断」は、今日のグローバル社会を生きるこの私という個へ迫る、ファティ・アキンからの鋭い問いかけである。絶望と憎悪の尖端であなたなら何を為すのか。誰しもがいずれその「決断」を迫られる。具体的に。現実的に。

(ライター 藤本徹)

 ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館、YEBISU GARDENCINEMA ほか大ヒット上映中!

監督・脚本 ファティ・アキン
出演 ダイアン・クルーガーほか
配給 ビターズ・エンド
2017 年/ドイツ/ 106 分/カラー
公式HP http://www.bitters.co.jp/ketsudan/

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