【宗教リテラシー向上委員会】 「律」のもとで赦し合える健全な社会を 池口龍法 2018年6月1日

 芸能人や政治家などがスキャンダルを起こすと、「人の不幸は蜜の味」とばかりに、テレビや週刊誌は騒ぎ立てる。ここ数カ月の間だけでも、汚職や男女間のトラブルなどの報道は数え上げたらきりがなく、そのたびに、個人SNSのタイムラインが大いに盛り上がる。

 わたしも時々、日々の活動の奇抜さをメディアに取り上げていただくが、良心的に書かれた記事でさえネット上では誹謗中傷の嵐にあう。最近ではお寺の教化事業としてアイドル活動を展開しているニュースが、格好の批判の的になった。「またか」とぐらいにしか思わないけれども、萎縮するスタッフももちろんいた。妬みややっかみなどの感情に基づいて、平然と人を裁くような心ない発言がまかり通るのは、決して健全ではないだろう。

 さて、お寺の中はスキャンダルと無縁かというと、やはり理想通りにはいかない。僧侶は建前として「聖職者」でも、実のところは生身の人間。下半身のガードが甘い人もいれば、物欲や名誉欲を抑えきれない人もいて、時に事件につながる。その記録が週刊誌のごとく赤裸々につづられているのが、「律」にまつわる文献である。

 わたしたちの日常語では修行者の生活規範を戒律と呼ぶが、仏教においてはもともと「戒」と「律」はまったく別の性質のものである。戒は内面の善なる資質を高めていく目的であるのに対して、律は僧団組織を運営するためのトラブルシューティングである。

 例えば、性行為を禁じる律の規定は、まず「須提那(すだいな)比丘が母の再三の要請もあって、家系を存続するために、出家前の妻と性行為に及んだ」ことがきっかけになって定められたという。しかし、「動物とならかまわないだろう」と抜け道を考えた人がいたので、動物との性行為も禁止された。それでも、我慢ができない人がいたので、その場合は「いったん還俗しなさい」と救済措置を与えられた。他にも男女の性にまつわるトラブル、金品にまつわるトラブルが山ほど載っており、比丘(男性出家者)に対しての規定は250カ条に上る。それぞれの罪の重さに応じて、罰と出罪のルールが定められている。

 仲間の比丘がスキャンダラスな行為に及んでいるのを見聞きした時、真面目な比丘は激高して釈迦のもとに行く。釈迦も「けしからん」と言って、比丘たちを集めて容疑のかかった者を問いただして叱責し、今後の戒めとして条文一つを定める。釈迦の名のもとに行われる最高裁の裁判の判例集が律である。

 実際には、律は釈迦在世のころに制定されたものではなく、没後100年ぐらい経つ中でおよその形ができ上がったことが分かっているから、弟子が釈迦に報告に行くくだりは虚構である。しかし、虚構だとしても、あえて釈迦の名のもとに法廷を開くあたりが、「文春砲」などの低俗さと一線を画していると思う。すなわち律は、人間のスキャンダルをあざ笑うための記録ではなく、スキャンダルを乗り越えて僧団を維持し、仏法を長く存続させていくためのマニュアルである。だから、律は読んでいてどこまでも温かい。

 社会を存続させていくという大義のためには、反社会的行動にどうしても制裁を加えねばならない。しかし、制裁がエスカレートして当事者を精神的に追い込むなら、そこに大義はない。適度な制裁に服した後に赦しがもたらされてこそ健全な社会であるが、人と人はなかなか赦し合えない。ちょうど律が示すように、人為を超越した神や仏のまなざしがあってこそ、社会に赦しがもたらされるのではないか。

池口龍法(浄土宗龍岸寺住職)
 いけぐち・りゅうほう 1980年、兵庫県生まれ。京都大学大学院中退後、知恩院に奉職。2009年に超宗派の若手僧侶を中心に「フリースタイルな僧侶たち」を発足させ代表に就任、フリーマガジンの発行などに取り組む(~15年3月)。著書に『お寺に行こう! 坊主が選んだ「寺」の処方箋』(講談社)/趣味:クラシック音楽

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