【教会建築ぶらり旅】 雑司が谷旧宣教師館(旧マッケーレブ邸)■しなやかに明快 藤本 徹 2018年6月1日

 雑司が谷は、東京都心を循環する山手線内側の北西部、目白台地のへりに位置する。鬼子母神や明治の文豪たちが眠る霊園でも知られるこの町は大戦時の空襲を免れたため、戦前の木造家屋や入り組んだ路地がそのままの姿で多く残っている。都電や地下鉄の駅からこうした路地に分け入ってしばらく歩くと、こじんまりとししょうしゃた庭園の樹々に囲まれた瀟洒な洋館が現れる。雑司が谷旧宣教師館である。

 下見張りの白い木造壁と、青緑の木枠をもつ大きなガラス窓が目をひくこの建物は1907(明治40)年、アメリカ人宣教師ジョン・ムーディー・マッケーレブにより建てられた。アメリカ・テネシー州ナッシュヴィルの郊外で1861年に生まれたマッケーレブは、神学校に学んで日本伝道を決意し1892年来日する。築地や神田などで十数年の経験を積み、1907年雑司が谷で聖書や英語を教える全寮制の「雑司ヶ谷学院」を開校した。以降、日本の対米開戦により帰国をす余儀なくされるまで彼の棲み家となったこの牧師館は、現在東京都の指定有形文化財となり一般公開されている。

 屋内を歩いてまず驚かされるのは、この建物がもつ機能的な開放性だ。その構造は19世紀末アメリカで独自の進化を遂げたシングル様式(shingle style)に基づいている。南北戦争後の住宅需要に応じてシングル様式が試みた合理性・居住性の追求は、この牧師館においても単なる使い勝手や風通しの良さなどには留まらない快適さ、風光の明快さへと結実した。

 その痕跡は各所の上げ下げ窓や、2階回廊部の限界まで広く採られたガラス窓の細い木枠、建物中央を貫く煙突から各部屋へと開かれた暖炉の集中型配置からも確認できる。また1階応接間に残る暖炉のアール・ヌーヴォー装飾や、玄関ポーチのカーペンターゴシほうづえさきック様式の方杖、洋館には珍しい割たけ竹を多用した居室天井の格子といった、簡素を旨としつつも繊細な意匠群には、マッケーレブが異国での暮らしに込めた丹念さと息遣いがうかがえる。

 これらに加え、浴室が2階にある点も特筆に値する。木造住宅には珍しいこの配置は、牧師夫妻の生活機能を上階へ集約させ、1階を教会事務や学校運営使用としたことに由来する。

 本連載で、教会建築ではない事例を初めて扱う理由は2点ある。まずは上述のように、この牧師館が貴重な明治期の木造近代住宅であり、その建築様式により南北戦争後アメリカの新風を伝える稀少さをも具える点。そしてこの建築が、紛れもなく教会活動に不可欠の一翼を為していた点だ。

 筆者が訪れた際には10人ほどの訪問者による賛美歌が響いていた1階の児童図書室(旧教会事務室)は、『赤い鳥』など今日珍しい大正・昭和初期の優れた児童書に子どもが触れられる教育伝達の場ともなっている。マッケーレブは幼少時、南北戦争で良心的兵役拒否者だった実父を亡くしている。雑司が谷旧宣教師館に残る繊細な意匠の数々が乗り越えてきた戦災の困難と、その逐一が伝えるマッケーレブの描いた道行きのしなやかさと。それらを通して、今日もこの場で育まれゆく子どもたちの未来とを想う。宗教における典礼がなべてそうであるように、建築もまた人間の人間たる所以を形にあらわす。この正味において、マッケーレブの教えはここで今なお受け継がれている。

【Data】雑司が谷旧宣教師館(旧マッケーレブ邸)
竣工:1907(明治40)年
設計者・施工者:不明
様式:シングル様式+カーペンターゴシック様式
構造:木造総2階建て
所在地:東京都豊島区雑司が谷1‒25‒5

藤本 徹
 ふじもと・とおる 
埼玉生まれ。東京藝術大学美術学部卒、同大学院 美術研究科中退。公立美術館学芸課勤務などを経て、現在タイ王国バンコク在住。

連載一覧ページへ

連載の最新記事一覧

TO TOP