【東アジアのリアル】 「貞洞」の中のキリスト教 李 恵源 2018年6月11日

 ソウルの貞洞(チョンドン)は、多くの市民に愛された独特な趣をもつ地域である。徳寿宮(旧王宮の一つ)の石垣に沿って歩くと、背が低めの洋館が一つ二つとその姿を現し、まるで歴史の中へ分け入っていくような気分となる。朝鮮時代に「漢陽」と呼ばれていたソウルは、四つの大門を擁した城郭に囲まれていた。その大門の一つである西大門(敦義門)のすぐ内側に位置していたのが貞洞であり、その敦義門跡から徳寿宮まで続く閑静な雰囲気漂う道が貞洞通りである。

 19世紀末、米国、英国、ロシアなどの欧米諸国と通商条約を結んだ朝鮮政府は、外国人居留地として王宮(慶福宮)からそれほど離れていない貞洞を選んだ。そのころから貞洞には次々と洋館が建てられるようになった。現在の貞洞は、そのような歴史の面影を残した観光地として輝きを放っているが、その歴史の中心にはキリスト教があった。貞洞は、プロテスタントが朝鮮に入ってくるにあたっての入口でもあった。

 貞洞にある代表的な歴史的建築物には、徳寿宮(1593年)、米国大使館(1883年)、英国大使館(1884年)、旧ロシア大使館(1890年)、貞洞第一教会(1897年)、重明殿(1901年)、梨花女子高100周年記念館(1915年)、培材学堂歴史博物館(1916年)、聖公会ソウル主教座聖堂(1926年)、救世軍中央会館(1926年)、ソウル市議会庁舎(1935年)などがある。横浜や神戸の異人館街に比肩しうる貞洞には、美しい建築物を見物するために多くの観光客が訪れている。毎年5月には「貞洞夜行」という行事が38カ所の歴史文化施設を開放して2日間にわたって開催されており、訪れた人たちはさまざまな文化的体験を楽しむことができるようになっている。

 貞洞は韓国キリスト教にとって特別な意味をもつ地域である。1880年代に来朝した最初の定住プロテスタント宣教師たちは貞洞に住居を構え、教会や学校、病院を設立しながらその活動を展開していった。敦義門跡から貞洞に足を踏み入れると、細い貞洞通りが伸びているが、通りの左側には長老教会、右側にはメソジスト教会がそれぞれ陣取っていた。

 日本で活動していた米国メソジスト監督教会のマクレーが1884年に朝鮮を訪れて宣教への門戸を開いた。その際、彼は米国領事館のすぐ隣の土地を調べて帰途についたが、その土地はメソジスト教会の宣教師たちより一足先に朝鮮にやってきた米国長老教会のアレンが購入した。アレンは4年間そこに住み、彼に続いてやってきた長老教会の他の宣教師たちがその隣に基盤を据える中で最初の組織教会である新門内(セムナン)教会が設立された。しかしその後、徳寿宮の拡張に伴い、長老教会の宣教師たちは貞洞を離れざるをえなくなった。アレン宅があった土地に建てられた重明殿は、第二次日韓協約(1905年)締結の舞台となった建物である。

 キリスト教の史跡で現在も残っている建物の多くは、メソジスト教会のものである。朝鮮最初の西洋式礼拝堂である貞洞第一教会堂、最初の近代教育機関であったアペンゼラー宣教師の培材学堂、最初の女性教育機関であるスクラントン宣教師の梨花学堂などの赤レンガでできた建物は現在も健在である。また、韓国唯一のロマネスク様式の建築物である聖公会のソウル主教座聖堂や建設当時ソウルの三大西洋式建築物に数えられ評判となった救世軍中央会館は貞洞が誇る建築物である。

 今年の「貞洞夜行」では、聖公会がパイプオルガン演奏会、救世軍が楽隊演奏会、梨花100周年記念館がメディアファサード上映を行うなど、市民とのコミュニケーションをはかった。貞洞から始まったプロテスタントは、現在韓国中に広まっているが、貞洞のキリスト教史跡は現在においてもキリスト教に対するイメージを刷新し、市民とのコミュニケーションをはかる場となっている。ソウル旅行の際には貞洞を訪れ、韓国の近代史および初期プロテスタント宣教史と出会ってみるのも一興であろう。

 い・へうぉん 1980年、ドイツ生まれ。延世大学韓国基督教文化研究所専門研究員、上海大学宗教と中国社会研究所客員研究員。延世大学神学科卒業、香港中文大学大学院修士課程、延世大学大学院博士課程修了。神学博士(教会史)。著書に『義和団と韓国キリスト教』(大韓基督教書会)。

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