【東アジアのリアル】 激動の時代を生きた神学教育者・陳澤民 松谷曄介 2018年7月1日

 日本では、今年に入ってから武田清子氏(享年100歳)、古屋安雄氏(享年91歳)など著名な神学者が相次いで世を去ったが、中国でも著名な神学者・陳澤民(チン・タクミン、Chen Zemin、1917~2018年)氏が101歳で天に召された。陳氏は独自の神学体系を打ち立てた神学者というわけではないが、50年代初頭から長年にわたり金陵協和神学院で教鞭をとってきた、むしろ「神学教育者」と呼ぶ方が適切かもしれない。日中戦争、共産主義革命、文化大革命、そして改革開放以後の激動の中国を生き抜いた、いわば最後の歴史の生き証人でもあった。

 陳氏は三代目のキリスト教の家庭に生まれ、日中戦争の最中に上海にあったバプテスト系のキリスト教大学・滬江(ココウ)大学で学んだ後、上海の外国租界で維持されていた金陵神学院分校(本校は南京から成都に避難)で神学を学んだ。その後、浙江省の病院チャプレンを数年間務め、52年から他の複数の神学校と合併した金陵協和神学院の教員として招聘され、以来、文化大革命期を除いて、一貫して同神学院で教鞭をとり続けた。

 陳氏は海外留学をする機会がなかったが、キリスト教大学で身に着けた卓越した英語能力を活かし、世界の神学書を幅広く読み、フスト・ゴンザレスの『キリスト教思想史』の翻訳も手掛けた。また教会音楽にも造詣が深く、自身が作詞・作曲した「復活の朝」は中国教会で今でも歌い継がれている。神学校では組織神学、歴史神学、教会音楽を担当し、中国教会の将来を担う若き神学生の教育に心血を注いだ。かつて陳氏の学生だった牧師たちは、「陳澤民先生ほど知識が豊富で、学生を愛してくれる教師は他にいなかった」と口を揃えて称賛するほど、学生たちから絶大な信頼を得ていた。

 確かに陳氏は政府公認のいわゆる「三自(愛国)教会」の枠組みの中にいた人物だが、政治的な表舞台に出ることがなかったため、悪い評判をほとんど聞かない。また陳氏は三自教会を無批判に肯定・支持していたわけではなかった。2010年1月、90歳を超えていた陳氏は、金陵協和神学院で遺言的な講演「私にはまだ言うべきことがある(我還有話要説)」を行い、その中で「我々は『家庭教会』の出現と発展という事実を認めるべきであり、これは過去30年来、否定することも無視することもできないことである」と明言し、また「三自教会の神学水準が家庭教会や一般学術界に大きく後れを取っている」と鋭い問題提起をし、大きな波紋を呼んだ。

陳澤民氏(2010年、筆者撮影)

 この陳澤民氏、実は日本の教会とも深い関係がある。1957年、日中国交が断絶しており、日中の教会交流も途絶えていた時代、中国教会の指導者・丁光訓(テイ・コウクン)主教の友人だった武田清子氏が訪中して先鞭をつけ、その後、浅野順一牧師を団長、植村環牧師を副団長、その他井上良雄氏など合計15名の「日本キリスト教代表中国教会問安使節団」が実現した。

 使節団の1カ月にわたる訪中の期間、中国教会側で案内・通訳を担当したのが陳澤民氏だった。筆者が陳氏にインタビューした際、陳氏は武田、浅野、井上諸氏の名前をすぐに口にし、懐かしそうに語っていた。筆者は陳氏に「戦後まだ10年ほどしか経っていない時期に、日本の使節団の受け入れに抵抗はなかったか?」と尋ねると、陳氏は「当然、『どうして日本人の世話なんかを』と思った。各地を回る際にも、日本の使節団に対する反対や怒りの声もあった。しかし1カ月間、共に過ごす中で、友好的な気持ちが芽生え、わたしたちはやはり兄弟姉妹であり、主にあって和解することが大事だと思うようになった」と答えた。その後、84年に丁光訓主教を団長とする中国教会代表団が初めて来日した際、陳氏も代表団に加わり、各地で講演も行った。陳氏にとって、これが最初で最後の訪日だった。

 中国教会に、クリティカルな神学的洞察力を持ち、そして日中のキリスト者の和解にも関心を寄せていた中国人キリスト者・神学教育者がいたことを、わたしたちは心に刻みたい。

松谷曄介
 まつたに・ようすけ 1980年、福島生まれ。国際基督教大学、北京外 国語大学を経て、東京神学大学(修士号)、北九州市立大学(博士号)。日本学術振興会・海 外特別研究員として香港中文大学・崇基学院神学院留学を経て、日本基督教団筑紫教会牧 師、西南学院大学非常勤講師。専門は中国キリスト教史。

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