【宗教リテラシー向上委員会】 歴史の風雪に耐える証言と物語 波勢邦生 2018年8月11日

 宗教文学や宗教経典の役割について考えている。遠藤周作の『沈黙』は司祭ロドリゴの架空の書簡、すなわち彼の証言からの引用という形で物語が進む。マーティン・スコセッシ監督による映画化が記憶に新しい。

 小説であれ映画であれ、欧州における『沈黙』の感想の多くが、ホロコーストとの類似点に言及する。ナチズムによるユダヤ人虐殺、徳川幕府によるキリシタン迫害。ホロコーストのガス室で、切支丹が逆さ吊りにされた闇の中で、なぜ神は沈黙していたのか。すべてを腐らせる沼のような国で、遠藤周作は、日本語キリスト教の問題と可能性に悩める偉大な文学的感性だった。

 一方で、黙さない神と人々について語る作品がある。ナ・ホンジン監督による映画『哭声/コクソン』だ。國村隼の怪演により日本でも話題になった。韓国の僻村・谷城(コクソン)で、家族内惨殺事件が連続発生。幻覚性キノコ、関係者に現れる謎の発疹、原因は不明なまま、警察官ジョングは娘にも発疹を見つける。彼は事件を追い、山奥で一人暮らす日本人(國村隼)を追いつめていく。同時に娘を助けるために、病院、教会、祈祷師にと駆け回る。そのどれもが自らの正しさを主張し、他を間違っている「悪霊だ」と断じる中、悲劇がジョング一家を襲う、というあらすじだ。

 監督は「この映画は混沌や混乱、疑惑について描いていますが、イエスは歴史上最も混乱を与え、疑惑を持たれた人物の中の一人ですよね」(「シネマトゥデイ」2017年3月12日)とコメントしている。

 本作を見るように勧めてくれた小説家・蝉川夏哉氏(『異世界居酒屋のぶ』)によれば、同作の問いは「ナザレのイエスが山奥に現れた時、人は信じることができるか」にある。

 「多くの人が、ふとした拍子に考えてしまうのではないか。この混迷の時代、再び原罪を背負ってゴルゴタの丘を登る者が現れるのではないか、と。今またキリストが現れたとして、人はパウロとなることができるのか。韓国のキリスト教会の持つ特徴的な問題にも触れつつ、物語は確信へと迫っていく。その結末は、信仰を持つ者にとっても、持たない者にとっても、あまりにも衝撃的だ。『哭声/コクソン』は、さまざまな問いをわたしたちに突きつけ、そして答えを与えてくれない、良い映画だ」と蝉川氏は分析する。

 誰もが絶対をかざして、他に否をつきつける。饒舌な神々のふるまいに、家族を人質に取られた人々は振り回され、搾取されて、やがて千切れて、谷城の悲劇は「哭声」となる。

 沈黙した神、または饒舌な神。一方は神の介入を願うしかなく、他方は神の不在こそが救いとなる極限状況だ。人類が経験するこのような状況を伝えられるのは、真摯な「証言」のみである。それは消費のための「物語」には回収し得ない「記憶」なのだ。だからこそ、証言は表象不可能な意味を持つ。しかし証言が指示した瞬間は記憶となり変質し、やがて証言も肉体を失ってしまう。

 ところが、時に宗教は「証言」を保存する。言わずもがな、聖書は神に遭遇した人々の証言集だ。大乗仏典は「如是我聞:釈迦よりわたしはこのように聞いた」という形式で証言の意味を継承しようとし保存した。

 現在、インターネット上では、有名無名の証言と物語が、悪霊のようにあふれては消えていく。しかし、歴史の風雪に耐える証言と物語がある。ますます宗教的に多元化する社会を生きるためにも、まず「証言と物語」として宗教文学や、他宗教の経典を読んでみてはどうだろうか。きっとそれは、現代と過去をつなぎ、新たな思索の回路を開いてくれるだろう。

波勢邦生(「キリスト新聞」関西分室研究員)
 はせ・くにお 
1979年、岡山県生まれ。京都大学大学院文学研究科 キリスト教学専修在籍。研究テーマ「賀川豊彦の終末論」。趣味:ネ ット、宗教観察、読書。

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