【聖書翻訳の最前線】新改訳2017 4「トーフー・ヮ・ボフーの訳『茫漠として何もな(い)』」 2018年9月11日

[3版][2017] 地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。

 ここは、新改訳(第三版)の訳をそのまま維持しました。

 第一に、ヘブル語のトーフーは「荒れ地」(waste)という意味で、通常、ウガリト語thwと共に「砂漠」などと訳されます。例えば、申命記32:10では、「荒野」と対にして用いられています。「荒野」と訳されるヘブル語(ミドバル)は、通常は、羊を放牧することができるステップのようなところを指します。一方、トーフーは、植物も動物も人もいない荒涼とした場所「荒れ地」を指します。創世記1:2では、そこに水があると言われていますから、通常の砂漠とは異なります。トーフーには、茫洋とした大水が覆う「地」の状態を意味する「茫漠」という訳語がふさわしいと言えます。アラム語タルグム、ルター訳 (“wüst”)、REB(1989 “a vast waste”)などはこの理解に立った訳出です。

 第二に、文語訳以来の「形がなく」(formless)という訳には、ヘブル語からの語源的な根拠はありません。これは紀元前2世紀にプラトンの創造神話『ティマエウス』の影響を受けた、ギリシア語聖書(七十人訳)「見えるものでも形あるものでもなく」に負うところが大きいのです。アウグスチヌス、『欽定訳』(KJV), RSV, NEB(1970), NRSV(1989 “a formless void”)などはこの立場に立っています。

 第三に、「空しく」という訳は、ラテン語訳(inanis)からのもので、ヘブル語を含むセム語からの支持はありません。

 

 第四に、「混沌としていた」を「地」の描写と考える立場(関根訳)があります。「混沌」は本来、天地が未開闢の状態を指す神話的表現ですので、「地」だけが「混沌としていた」とは言えません。現代語としてであるなら、それは「無秩序」を意味し、「大混乱」とほぼ同義です。しかし、七十人訳が創世記1:2で、それを用いることが出来たにもかかわらず、あえてカオス(混沌)という訳語を採用しなかったことには大きな理由があったのだと思います。

 2節の「闇と大水」に、K・バルトのように「非創造」の「混沌」の概念や、ジョン・H・ウォルトンのように「混沌」をただ言い換えただけの「非秩序」という抽象概念を持ち込むことは避けたいと思います。

 「茫漠として何もなく」は、第三日と第六日に成就した「正常な」(すなわち「植物も生え、動物がおり、人が住んでいる」)地に居る人間に対して,神が創造された「地」が、その始まりにおいては「まだ正常でない」ことを、人間のことばで説明するものです。

 創造の記述は、通常は「まだ……でない」(not yet)という否定表現(例えば、創2:5やバビロニアの「創造神話」エヌマ・エリシュ)で言い表されます。創世記1章1節も、文法的に肯定文ですが、内容的に否定的なものになっています。トーフーは、「何もない、空(から)である」(“empty”)という語ボフーとセットになって(二詞一意的に)、地が「まだ」植物も動物も人もいない「茫漠として何もない」空(から)の状態であること示しています。

 すなわち地が「光がなく、大水に覆われていてまだ地とは言えないようなところ」「まだ正常でない地」であることを、今にも始まろうとしている神の創造行為(3節から)の「予備的情報」として、すでに「乾いた所(=地)」(10節)に住んでいる読者に対して、与えているのではないかと考えられます。

 したがって、「創造前」に、永遠に存在される神以外に、「何か、無というもの」が存在していたということを「積極的に」言おうとしているのではないと考えます。

(新日本聖書刊行会)

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