【映画評】 『モアナ 南海の歓喜』 映像表現の極を目指す試み 2018年9月21日

 南太平洋サモア諸島で暮らす青年モアナには、ファアンガという婚約者がいる。モアナは兄弟らとタロイモ採りをしたり丸木舟で漁へ出かけたりする合間に、ファアンガと逢瀬を重ねる。こうして南洋の暮らしを活写する『モアナ南海の歓喜』は青年を主人公とする一方、モアナの母が樹皮の繊維を叩くことで布地をつくり出す様や、結婚の儀式に向けた入れ墨の模様など今日の文明社会では失われつつある生活様式の全体を質実に映し出す。

 白銀の極地に暮らすイヌイット(エスキモー)の人々を撮った1922年のデビュー作『極北のナヌーク』が日本でもよく知られる監督ロバート・フラハティは、そこで築いた方法論を本作においてさらに発展させる。自身が撮りたい筋立てや美学に人物や素材を添わせるのではなく、それは眼前する世界の美しさを捉えるためいわば自らを媒体と化す制作姿勢だと言える。

 映像評論家ジョン・グリアソンは『モアナ』発表の1926年、ニューヨーク・サン紙で本作を以下のように批評した。

 「本作は、ポリネシア民族の生活、その安らぎと美しさ、そして痛みを伴う儀式を通して得られる救済の詩的な記録である。何よりもまず自然が美しいように美しい。『モアナ』は、後世に残る数少ない傑作映画と肩を並べるに相応しい、ドキュメンタリーとして価値を持つものである」

 「ドキュメンタリー」という、誰もが知る表現ジャンルがある。事実を反映させた表現物というニュアンスをもつそれは、創作物を示す「フィクション」の対義語として今日流通しているが、実を言うとこの語には明確な起源がある。それがここに引用要約したグリアソンによる『モアナ』をめぐる一文だった。

 興味深いことに、「TVドキュメンタリー」や「ドキュメンタリー作家」かいしゃといった語用を通じ人口に膾炙したこの語の示す《反フィクション性》とは裏腹に、ロバート・フラハティがその生涯をかけ研ぎ澄ませた制作手法は、必ずしも登場人物の演技や映像のつくり込みを否定していない。このため、フラハティがドキュメンタリーの元祖として著名になればなるほど、彼の「やらせ」を指摘する種の前後関係が倒錯した批判も一般化した。しかしこのことは逆に、表現ジャンルをめぐる今日の枠組みとは異なる可能性をフラハティ作品が体現した証左でもある。

 実際、例えばフラハティ晩年の作品『ルイジアナ物語』などは、因習と近代との交接においてある種異様な映像的深淵へと達している。それはとても今日の映像を語る枠組みで捉えきれるものではない。それは撮影のため移住し、何年もかけた現地の人々との共同作業を通じてひと連なりの映像を紡ぎあげる術を編み出したフラハティが、晩年になって故郷の内に「外部」を見出す道のりでもあった。

 今回の『モアナ南海の歓喜』公開版では、フラハティの娘モニカ・フラハティによる80年代の現地録音が新たに付加されている。紙幅の制約から詳細は記せないが、従来のサイレント版に付されたこの採音をめぐる物語もまた素晴らしい。本作の日本公開にあたっては『極北のナヌーク』の同時上映も為されるほか、周辺作品の上映を含めた関連企画も多く予定されている。映像表現の極を目指すフラハティの試みがどれほどの射程をもっていたか、ぜひこの機会に劇場で体験していただきたい。(ライター藤本徹)

岩波ホールにて公開。

監督:ロバート・フラハティ/共同監督:フランシス・フラハティ、モニカ・フラハティ
配給:グループ現代

Ⓒ2014 Bruce Posner-Sami van Ingen. Moana Ⓒ1980 Monica Flaherty-Sami van Ingen. Moana Ⓒ Ⓟ1926 Famous Players-Laski Corp. Renewed 1953 Paramount Pictures Corp.

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