【宗教リテラシー向上委員会】 人間の死を商業の場からわたしたちの手に 2018年10月11日

 なぜお寺でお葬式をしないのか。

 これはわたしの積年の悩みであった。今でも1周忌や3回忌の法事や、お盆やお彼岸の法要はお寺や自宅で行うのに、お葬式に限っては、昨日今日建てられたばかりの葬儀会館を借りる。わたしが子どものころはまだ、自宅やお寺でのお葬式がよく営まれていた。ご自宅での場合、僧侶の控え室がなかったら隣家で着替えされてもらうこともあった。このような地域一体となってのお葬式より、コストがかかったとしても、すべてを葬儀社に丸投げできる方が都合いいというのは、まさしく時代の流れである。

 しかし、エンディング産業が1.8兆円の巨大市場だなどと数値化されているのが象徴的だが、もっとも神仏の救済を願うべき場が近年あまりに商業ベースになっている。これは一人の僧侶としてあまりに悲しい。

 ありがたいことに、4年前、わたしが住職になって早々に「もしもの時にはお寺でお葬式をしたい」と相談してくださった檀家さんがあった。葬儀社を交えて打ち合わせをしていると、「お寺と違って葬儀会館は冷暖房が完備されています。段差もありません。快適に過ごしていただけます」と、言葉巧みに誘惑してくる一幕があった。わたしは横で聞いていてイラッとしたけれども、同時にニーズに合わせて設備投資をしてこなかったツケを痛感した。檀家さんはそれでも、「うちは代々お寺で葬儀をあげさせてもらっているので……」と一蹴してくださった。胸のすく想いがした。

 打ち合わせからほどなくして、訃報を受けた。12月の寒い日だった。にわか工事で本堂正面にスロープを作ったり、堂内には石油ストーブを搬入したりして、可能な限り快適さを心掛けた。それでも、快適さを仮に空調やバリアフリーの観点からのみ判断するなら、葬儀会館に遠く及ばなかっただろう。しかし、お葬式は故人の往生を願い、ご遺族の悲しみに寄り添うための場である。お寺のお葬式であれば、由緒ある本堂のご本尊の前で供養できる。わたしもずっと一緒にご遺族に寄り添える。この時は、ご遺族と一緒に食事をいただき、お酒も飲み、夜遅くまで共に故人を偲んだ。「やっぱりお寺でお葬式ができてよかった」と喜んでくださった。

 この経験以降、葬祭会館でのお葬式に臨むと、どうも味気ない。通夜も葬儀も約30分前にうかがい、喪主とのあいさつ、葬儀社との打ち合わせをして、決められた通りに儀礼を執行する。完全に流れ作業である。わたしなりに法話の中で故人を精一杯偲んだりするが、大した抵抗にはなり得ていない。お寺でお葬式をあげた時の趣に遠く及ばない。したがって、わたしは「お寺でもお葬式ができますよ」と檀家さんに積極的に声をかけるようにしている。少しずつ評判は高まってきており、今年は3回、お寺でお葬式があった。

 家族葬など小規模なお葬式が今や主流だから、お寺で受け入れても設営面はさほど困難ではない。ただ、住職には、24時間365日、訃報を受け入れる覚悟がいる。東京出張中の早朝5時ぐらいに滞在先のホテルで電話がかかってきたこともある。台風が吹き荒れる中でご遺体を受け入れる準備をしたこともある。

 しかし、一人の人間が命を終えていくという重みに比べれば、これぐらいの苦労は軽いものである。すべて終わってみれば、苦労した分だけわたしも供養に立ち会えたという充足感が残るし、ご遺族とも親しく心が通い合う。こういうお葬式が社会全体に広がっていけば、人間の死が商業の場からわたしたちの手に取り戻されるはずである。

池口龍法(浄土宗龍岸寺住職)
 いけぐち・りゅうほう 1980年、兵庫県生まれ。京都大学大学院中退後、知恩院に奉職。2009年に超宗派の若手僧侶を中心に「フリースタイルな僧侶たち」を発足させ代表に就任、フリーマガジンの発行などに取り組む(~15年3月)。著書に『お寺に行こう! 坊主が選んだ「寺」の処方箋』(講談社)/趣味:クラシック音楽

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