【伝道宣隊キョウカイジャー+α】 「見られている」感覚 キョウカイゴールド(2代目) 2018年10月11日

 子ども同士のトラブルは、たいてい休み時間に起こる。場所は、校庭や体育館やトイレであることが多い。これらの場所は教室と比べて教員の目が行き届きにくく、「見られている」という感覚が薄れる。中でも特にトイレでのトラブルは、ほとんど目撃するのが難しい。見ていない場所で起こったトラブルを解決する際はよく事情を聞き、「見ていなかったから、分からないけれど……」と前置きをしながら話し合いをすることが多く、もどかしい気持ちになる。

 わたしが勤務する小学校では週に1度、クラスの様子や次週の授業の予定を、クラス通信というお便りで保護者へ伝える。そのために日ごろからデジタルカメラを持って学習の様子や友だちとの関わりの様子を撮影し、それらをお便りに掲載している。これまで写真を撮り続けてきて気が付いたことは、カメラを向けられると多くの子どもが変化するということだ。

 例えば、姿勢が悪かった子どもは背筋が伸び、集中していなかった子どもは周りの子を見て焦り、キョロキョロし始め、音読をしていなかった子どもは教科書を持って音読を始めるようになる。担任している低学年のクラスで現在一番効果的なのは、クラス全体の様子を写真撮影ではなくムービー撮影することだ。「かっこいい人撮るよ~!」なんて言うと、子どもはやる気に満ちあふれる。カメラを向け始めた途端に、声の調子まで変わるのだ。レンズ越しでも「見られている」という感覚が、そのような変化をもたらすのだろう。

 もちろん、これは活動の冒頭で導入として取り入れているのであって、音読中ずっと撮影し続けているわけではない。また撮影をやめれば姿勢もすぐに崩れてしまうが、ダラダラした姿勢から切り替える、いい機会になっていると言える。

 カメラ以外にも、子どもが変化する場合がある。それは、授業の途中に担任以外の誰かが教室をのぞきに来た時だ。本能的に体が動いてしまうのか、一生懸命勉強していることをアピールしようとしているのか、子どもの授業態度が良い方へと改まる。これからも子どもの自由を制限するための監視的な役割として見るのではなく、子どもを見守る姿勢を大切にしたい。誰かに「見られている」という感覚は、子どもを育み、教育の中で良いきっかけになっているように思うからである。

 大人であるわたし自身も「見られている」という感覚があるのとないのとでは、違うことがある。
というのも、本校はクラス担任と副担任(副担)でのチーム・ティーチングの協力体制が整っているが、副担がおらず担任1人でクラスの子どもと教室にいると、教員2人でいる時よりも緊張感が和らぎ、少しばかり気が緩んでしまうのだ。

 近ごろ学校周辺には、市町村によって防犯カメラが備えられ、自家用車にもドライブレコーダーが取り付けられ、後方録画中と書いてある車もたびたび目撃する。これらは犯罪や事故を抑制したり、記録したりすることは言うまでもないが、わたしたち大人にも「見られている」という感覚を持つことは、大切なことなのではないだろうか。わたし自身も子どもと関わる際の言動を、いつ同僚や保護者に見られてもいいように、普段から透明性を持って子どもとの生活を送っていきたい。

キョウカイゴールド(2代目)
 金刺羊子(かねさし・ようこ)キリスト教主義の小学校で〝こひつじ〟たちを放牧する癒し系ひつじかい教師。時には保護者のひつじかいにも変身。イエス様のファンクラブが、子どもたちから家庭へと少しずつ広がっていくことを目論んでいる。武器:喜怒哀楽に合わせてコロコロかわる表情/必殺技:褒めホメ攻撃/弱点:虫

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