【教会建築ぶらり旅】 立教学院諸聖徒礼拝堂■そこに建つチャペルの教えるもの 2018年10月11日

 立教大学が今ある池袋にキャンパスを構えてから、今年2018年でちょうど100年を迎える。同大学が築地鉄砲洲の元外国人居留地から移転した1918年は、帝国大学以外の公私立大学を法的に認可する大学令が公布された年でもある。この勅令に基づき立教大学は1922年、キリスト教主義を掲げる大学としては同志社に次いで認可を受けた。

 立教学院諸聖徒礼拝堂の献堂は1920年。以来、この礼拝堂は池袋キャンパスのほぼ中央にあり続けてきた。やや北東寄りに位置する大学正門を入ると、時計塔をもつ本館を正面に望む形で、完全なシンメトリーを描いて図書館棟と礼拝堂とが左右に座している。立教大学の重要視するものが何であるかを、その配置が端的に象徴する。

 さて、本連載の主眼である「日本教会建築」の流れの中で立教学院諸聖徒礼拝堂を見た時、たいへん興味深いことの一つは竣工以降この建物に加えられた変化の推移である。こと東京の歴史ある煉瓦建築をめぐっては、関東大震災と第二次世界大戦が大きな試練となったことは幾度か触れてきたが、今回もその例に洩れない。まず、落成から数年を待たずに被った関東大震災による損壊を受け、屋根構造が切妻造から強度に優る寄棟造へと改築された。これに伴い、妻側にあたる祭壇背面に存在した巨大なステンドグラスは姿を消し、祭壇上部に浮かぶ丸窓型のそれへと変更された。構造強化という明確な目的があったにせよ、これにより礼拝者が堂内で浴びる光の質に大きな変化が起きただろうことは想像に難くない。

 続く第二次世界大戦下においては、時局がら大学とキリスト教との関係が断ち切られ、1942年10月、諸聖徒礼拝堂は閉鎖された。立教大学は鉄製の正門を軍へ供出したのみならず、礼拝堂内の内陣と外陣とを分けるスクリーンや説教壇、長椅子などをも防空壕掩蔽のため失った。瀟洒な意匠が彫られたスクリーンの背後に大型ステンドグラスが控える姿は、いまや献堂当初の写真に偲ばれるのみである。筆者が個人的に感銘を受けたのは、結果としてこうした変化が獲得した現代性を堂内で実感
できたことだった。100年前とは異なり、電飾の光と色彩の氾濫極まる池袋市街の至近にあって今日礼拝堂に求められるのは、大きな開口部から透過して身を染める光や装飾の豊潤であるよりも、適切に抑制された落ち着きだろう。

 また、本礼拝堂の東側壁面には、煉瓦校舎群全体を記念する定礎石が据えられている。堂内壁面には過去に功績のあった司祭らの銘に並び、戦没者名を連ねたプレートの掲示がある。礼拝堂入口間際の地面にある平和祈念の石碑を読めば、2000年代に入ってからの敷設と分かる。それらが歴史を証言する。近年、新たな図書館棟の完成に伴い、礼拝堂建物と対をなす旧図書館棟は展示館としてリニューアルされた。それが展示企画に沿った歴史開陳の場であるのに対し、礼拝堂はその存在自体がいわば時代の生き証人だと言える。

 戦前に立教学院総理を務めたチャールズ・S・ライフスナイダーは、立教の教育の要として智育・体育・霊育を挙げ、本礼拝堂により霊育を象徴させた。ゆとり教育の失敗にも明らかなように、経済至上の戦後需要に対応した詰め込み型の公教育は現在、完全に方向性を見失っている。この意味で「霊育を怠りては、真の人格教育は達成せられない」とライフスナイダーの語った教育理念の体現が、かつてないほど必要とされる時代になった。それはかつて数々の苦難を経たこのチャペルがいま現前して在るということ、他に代えがたいその価値が真に活かされる時代でもある。

【Data】立教学院諸聖徒礼拝堂
献堂:1920(大正9)年
設計:マーフィ・アンド・ダナ建築事務所
施工:清水組
様式:チューダー様式
構造:フランス積み煉瓦造、シザーズトラス
所在地:東京都豊島区西池袋3-31-1

藤本 徹
 ふじもと・とおる 
埼玉生まれ。東京藝術大学美術学部卒、同大学院 美術研究科中退。公立美術館学芸課勤務などを経て、現在タイ王国バンコク在住。

©立教大学

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