【聖書翻訳の最前線】新改訳2017 7「宥めを行う」・「宥めのささげ物」について 2018年10月11日

 旧約で102回使用される動詞キッペル、3版まではその8割以上の箇所で「贖う」と訳されてきました。しかし、「贖う」という訳語は別の二語パーダー(padah)とガアル(ga’al)にも充てられていましたので、これら二つのヘブル語に対して訳語上の区別が付けられてこなかったことになります。

 キッペルの意味は、神の怒りや刑罰といったテーマそのものが敬遠される近代の神学的な状況ゆえのことか、先入観を排してテキストから考えるということが十分になされなかったように思われます。

 キッペルが神の怒りをなだめるものであろうとの示唆は新しいものではありません。すでに3版においても、「贈り物によって彼(エサウ)をなだめ・・・・・・」(創世記32:20)や「贖い金を【主】に納めなければならない・・・・・・わざわいが起こらないためである」(出エジプト30:12)の訳からその理解があったことが推定されます。

 

 さて、3版において、「なだめのかおり」という訳語は、レビ記1章では、4節におけるキッペル(「贖う」)が9節の レーァハ・ニーホーァハ(「なだめのかおり」)においてその目的を果たすと見ることができます。すなわち、動物の頭に手を置くこと、血の儀式、そして、残りの部分すべてを煙にすること、これら全体の目的がレーァハ・ニーホーァハ(「なだめのかおり」)が立ち上ることにあると理解できます。このことからは、もしレーァハ・ニーホーァハの訳として「なだめのかおり」が正しければ、全焼のいけにえの儀式は基本的に神の怒りをなだめるためのものであるように見えます。

 ところが、この「なだめのかおり」と訳された レーァハ・ニーホーァハは、2章の「穀物のささげ物」や3章の「和解のいけにえ」には頻出するものの、4章の「罪のためのいけにえ」の儀式では、4通りの礼拝者が念頭に置かれる中で、一般の人が罪に陥った場合だけに一度だけ登場し(4:31)、祭司や全会衆あるいは族長が罪に陥った場合には登場しません。この背景として、罪に対する責任が重い場合にはレーァハ・ニーホーァハへの言及はふさわしくないということが考えられます。

 このことは、ヘブル語原文においては、神の怒りの度合いが低ければレーァハ・ニーホーァハが登場し、高ければキッペルだけが登場するということに他ならず、そうであれば、レーァハ・ニーホーァハを「なだめのかおり」(‘soothing odor’)と訳すことは行き過ぎではないかと考えられます。むしろ レーァハ・ニーホーァハは「芳ばしい香り」(‘pleasing aroma’)とすべきであり、今回の改訂ではそのようにしました。

 つまり、キッペルこそが罪に対する御怒りのなだめにおいて中心的な役割を果たすとの見方が妥当と言えます。さらに、キッペルは、それが一定の儀式を通して為されるので、儀式的な文脈では「宥めを行う」と訳すことにしました。

 

 結果として、今回の改訂では原則的に、パーダーには「贖う」「贖い出す」、ガアルには「買い戻す」「贖う」、キッペルには「宥めを行う/宥める/なだめる」という訳語が充てられています。

 したがって、3版で「贖いの蓋」と訳されていたカッポレットが、「2017」では「宥めの蓋」(出エジプト25:17、 ヘブル9:5参照)になり、新約の「宥めのささげ物」(ヒラステーリオン)が3版の通りにローマ3:25、 Ⅰヨハネ2:2,4:10に残りました(3版「なだめの供え物」)。

 

ローマ3:25

2017]神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。

(新日本聖書刊行会)

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