【告知】 次号「Ministry」特集「批評誌『アーギュメンツ#3』が拓くミライ」

 手売りで1,000部を売り切った「批評誌」がある。その最新号には、キリスト教に関しての論考が載っている? しかも「怪談的キリスト教」!? 次号Ministry(第39号・2018 秋)では、いま若手批評家として最も注目を集める黒嵜想・仲山ひふみ両氏が手がけた批評誌『アーギュメンツ#3』の刊行記念トークのキリスト教に関する部分を抜粋してお届けする。波勢邦生(弊紙・関西分室研究員)も加えた、紙幅に収まらない熱いトークの一部を先行公開。次号Ministryに先駆けて、キリスト教救済論の「主体」をめぐる鼎談を以下に紹介する。

『キリスト教とは何か(1)。学問的には「キリスト教は多様な聖書的伝統」であり、教義的には、神のことばである聖書、聖書に示された三位一体の神、その神の御子キリストの二性一人格を信ずるものが、キリスト教である。しかし、ぼくのことばで言えば、それは地球をつかむ神の五指だ。

……キリスト教は、神の手として地球をつかんでいる。人間の五指のかたちと役割が違うように、人類と世界は、各伝統の中で神と接触した。神の五指は六大陸文明史の動態において積極的にも消極的にも機能した。『教会史をみなおせば、環地中海地域の時代、環大西洋地域の時代、そして環太平洋地域の時代と区分されるであろう。そこには中心の移動があり、問題領域の拡大がある。しかし、環太平洋地域の時代は最後決定的』だという意見もある(2)。
 
 神の掌を地中海沿岸弧とすれば、五指の頂点をつなぐ弧が太平洋のかたちとなる。二〇一六年夏、コプト正教会が京都で正式に教会を開いたことで、五代教区の伝統が日本列島に到達した。しかし、いずれのキリスト教であれ日本において浸透しているとは言い難い。つまり日本の文化と言語は、神の掌と向き合うように、神の指の隙間にある。
 
 祖父を含む多くの日本人が、この神の指の隙間で死んでいった。救われるために必要なニカイア・コンスタンティノポリス信経を告白することなく、そんなものを知る由もなく、彼らは死んでいった。では、彼らはどうなったのだろう。主体的に神を知らなければ救われないのか。超越と対峙し自己を形成した主体でないことは罪を意味するのか。
 
 大まかに言って、ぼくは神の指とその隙間を包摂するより大きな可能性を考えている。キリスト教が、古代地中海世界から煙り立つ普遍性の一つのかたちであるならば、それが零したものさえ包含するもの、すなわち環太平洋弧から伸びあがる可能性を考えたい。』
(波勢邦生「トナリビトの怪」『アーギュメンツ#3』渋家、2018)

1) キリスト教学者・水垣渉の定式。日本基督教学会『日本の神学』54巻(2015)の収録講演、『聖書的伝統としてのキリスト教――「キリスト教とは何か」の問いをめぐって――』

2)古屋安雄/大木英夫「環太平洋地域のプロテスタンティズム」『日本の神学』281頁。大木はこれを述べてのち『そこにはいっていくプロテスタンティズムは、明確な主体性の自覚と状況の展望をもつことが必要であると思う』とする。

波勢: 本誌アーギュメンツの興味深いところは、目次をご覧になって頂ければ分かると思います。まず冒頭論文として、山内朋樹さんの福島の帰還困難区域の取材記事が掲げられます。直後、巻頭言「この世界の震え」があって、そこでぼくらの世界と現在という足場を据える。つまり、3.11以後という世界と現在を明確に意識したつくりになっている。そして、拙論「トナリビトの怪」が来る。

 購入された方、既に読まれた方はわかると思いますが、古代地中海世界のキリスト教五大教区から話が始まっている。そして、古代から現代にいたる流れの中に「来る、きっと来る――Jホラー批評の可能性をめぐって」が置かれて、インターネット登場前後の恐れの問題が扱われて、「アジア的未来主義と非――他者」へとつながり、ポスト・インターネットや思弁的実在論へと進む。これらを経由してのちに、統合の試論がなされて、声の観点から近代ということが浮き彫りにされ、断崖という小説で終わるんです。つまり「恐怖」「交換可能性」というテーマで古代に遡ってまた近現代まで駆け上がるような構成になっています。ルービック・キューブを解くような面白さのある本になっています。

仲山: 時間的にかなり入り組んだ構成になっているのはその通りですね。加えていえば、巻頭言では、怪談の問題、恐怖の情動を中心的モチーフとして取り上げました。「批評とは何か」を批評自身が絶えず問い返すという、一見誠実に見えるけれども他方で自己言及性のゲームに淫しているにすぎないとも言える状況から抜け出して、何らかの外部性に、実在的な次元に自身の言説をひもづけること。それこそが批評「性」だと考える。今回のモザイク状にも見える構成には、批評についてのそのような考え方が反映されています。

黒嵜: 本誌アーギュメンツ#3を編集する際に考えていたことはたった一つで、「新しい時間性」です。怪談キリスト教論ともいえる「トナリビトの怪」では、沖縄の怪談に触れていますよね。要するに怪談とは、歴史的には不用となったような特定の場所に、過剰に物語を読み込むことで機能するものです。たとえば京都の池や沼ですよね。川は歴史を生きるんですが、心霊スポットになるのは池ばかりです。不用の池だからこそ、過剰に物語を読み取られ、しかも流れないからこそ、歴史を生きず、その場所で地産池生の心霊現象やオカルトの物語を生む。これら怪談の内実をみていくと、もしあのとき自分がこうしていたら、この被害者のようになっていたかもしれないという、怪異とされるものやそれを見出す誰かと自分との交換可能性にゾっとするところに怖さがある。

 池というのは流れていない。池というのはその場その場で、怪異に出会う人々の交換可能性によるコミュニティをつくる。しかし川のように流れていないので池同士の感覚が折り合う場所がない。どこの疎水から派生し水路が断たれてここに溜まったのか、ということが見たままでは分からない。つまり歴史を遡れない。「今、ここ」の共感で集まっているだけの人々がタイムラインを作れないというのは、Twitterでも同じです。  

 SNS以降に強くなった、「いいね・うらやましいね・こいつ許すまじ」といった、場当たり的な共感の共同体が、いかに時間性をつくれるのか。皆が会う共有可能なタイムラインをいかに作れるのか。それがぼくの関心です。  ポスト・トゥルースと呼ばれる情報環境も同様です。たとえば、とある虐殺についての「あった/なかった」という立場は、どのような語句で検索するのかという態度において先に決まっていることがあり、エビデンスは立場を補強して、棲み分けるために集められる。通常、互いの事実認識を擦り合わせるというのは、同じタイムラインを参照するということで目指される。しかし、これを参照しないことで成り立っているのが、いわゆるポスト・トゥルース以後の、信仰に基づいた棲み分けの状態です。

 先の話に近づけていえば、池を川のように読み換えるという読み換えが共有可能な形で顕在化するにはどうしたらよいのか。この問題意識のもとで提案されたのが、この目次です。  かつての批評、たとえばゼロ年代批評ならばここで「唯一の歴史なんてないんだ、みな違うものを信じているのだ」という価値相対になって終わることが良しとされたでしょう。それぞれの場所が持つ歴史をネガティブに読み換えて、空間的に併置して終わる作業ということで、まさに池。ところが、今回の波勢さんの「トナリビトの怪」は、キリスト教信徒で啓示を信じるからこそ、それぞれの解釈で棲み分けるよね、ということでは絶対に終わらせない。「いまここ」の共感で棲み分けた池たちを、実はかつて川がつないでいたのだ、と指摘している。ここに、新しい時間性を考えるのに面白い視点がある。

 巻頭言において「恐怖」に注目したのは、たとえ人々が共感の動員によって棲み分けたとしても、恐怖という感情は未来に向かざるを得ないからです。恐怖という感情は、予感を取り付けて、その向こうに何かがやってくるという確信に変わる瞬間にある。これを映像において操作するところに、Jホラーの一つの本質があると僕は考えています。共感に閉じこもっていても、ある種のタイムラインを共有できてしまう、未来につながる時間性。この問いを様々な論者に試してもらったのが、本誌アーギュメンツ#3です。

 「トナリビトの怪」に「Jホラー座談会」が続いているのは、そういう意図からです。波勢さんは、キリスト教徒として、かつてこれらの池からどこに水路が続いていたのか、過去に遡行するタイムラインを作ろうとした。これは二次創作の群れから、公式側が新しい「オリジナル作品」をもう一本作るという話と似ている。まどか☆マギカ、シュタインズ・ゲートなどで例えれば、鹿目まどかは、本当は死ななかったかもしれない。鳳凰院凶真は、牧瀬栗莉栖を救うのをあきらめたのかもしれない。スピン・オフというのは、メインストリームに対する仮定法で出来ていくものです。二次創作は、大樹のような幹を前提としなければつくれない。「トナリビトの怪」で行われた、過去に遡行線を見出して聖書を怪談のように読み換えるという作法は、分岐し並置される二次創作によってむしろ復古する大樹を見いだすものと捉えています。

仲山: いくつもの人格性が分散してどこに漂着するのかわからない、複数をつなぐハブ状態の人格性というネットワークを考えないと、聖書やキリスト教を生きることができない。私たち非キリスト教徒にとっても、その問題の重要性はよくわかります。複数の人格という類似性の網目を伝う情動と意味の流れは一方向ではない。いくつもの方向に散乱していく可能性がある。
 映画理論、またはマンガ研究における視点の問題です。このコマは誰が見ているのか。これを「主観・客観・間主観」という哲学用語で分析すると、主人公視点からだと、主観的ショット、誰でもない第三者の視点からは客観的ショットといわれる。あるいは、そのどちらでもない、交錯する複数の視点だと間主観性ショット。これは映画やマンガだけでなく、人間の実際の知覚一般に関わってくる問題ともなりえます。

 たとえば、いまぼくはこうやって目の前の風景、事物の状態を知覚して表象します。しかし、自分の頭の中にあるイメージを、これは自分の視点が捉えたものだと意識しなければ、そういう属性は付かない。つまり、実際に頭の中に浮かぶイメージそのものには、これは誰が見たというメタデータ(タグ)のようなものは付いていない。実際、他人が見ているイメージを自分が見ているかのように感じることもある。それはアニメや映画を視聴しているときの、自然な感情移入の状態です。あるいは、自分が見ている事物の状態を別の視点から得られた表象と照合し、概念化することで、客観的に「これは虚構にすぎない」「これは錯覚だ」と否定することもできる。
 つまり、物理空間内に存在している実際の自分の視点と、情報空間内に存在していて知覚のデータを処理している不定の視点がズレているという、そういう人間の知覚の根本的原理の問題ですね。

 超越に対する内在、神と人間ということから考えれば、神の視点では、処理されたデータは、主観と客観とに明確に分類可能であり、メタタグもきっちり決まります。いわゆる神の無限の、知的直観というやつです。しかし、人間の視点は、そこまで完璧ではなく、言い換えれば有限なので、自分が処理している知覚、感覚データというものに、どういうメタデータが付いているのか、よく分からないままやっている。
 この「よく分からないままやっている」という状態が、視点の交換可能性をもたらしている。そう捉えられるのではないか。

 そして、さらに踏み込むなら、この交換される視点の行きつく先は、生きている人間の中には留まらないのではないか。すでに死んだ人間の視点にまで届いてしまうのではないか。死んだ人間はかつて、生きていた。この「かつて」が重要です。つまり、視点の交換可能性によって時間性の限界が乗り越えられる。だからこそ、恐怖の問題は、未来の時間性を招来するのです。実際の視点データの知覚処理が曖昧になっているからこそ、視点に紐づけられた主体を交換できる可能性が生じてくる。死者と生者の経験が交換可能になる。生者はいくつもの死者の可能性を生き、死者はいくつもの生者の可能性を死んでゆきます。人格は類似性の網目に開かれ、限りなく複数化してゆく。「トナリビトの怪」で言われるような「弱い主体」の問題が出てくるのは、ここにおいてです。

 たとえば戦後の知識人たちは一般に、日本人の弱い主体性はファシズムに対する抵抗力をもたないと、考えています。丸山眞男が「日本の思想」で示したような無責任構造の指摘です。つまり、「弱い主体」は、倫理性を放棄し、自然な悪に行きついてしまう危険をはらんだ主体だと、そう主張することもできるわけです。

 「トナリビトの怪」では、この危険に対する抵抗のラインが、怪談における、死者とさえも視点の交換可能性をもつような主体の力として新たに捉えなおされようとしている。そこで聞きたいのは、波勢さんが考える「怪談キリスト教」または日本的な「弱い主体」は、どんな倫理性を担保できるのか、ということです。「トナリビトの怪」で著された宗教が担わなければならない倫理性の次元はどこにあるのか。 (詳細は次号Ministryへ!)

購入、問い合わせ先:https://arguments-criticalities.com/

登壇者紹介:
黒嵜 想(くろさき・そう)@kurosoo
 1988年生まれ。批評家。音声論を中心的主題とし、多様な評論活動を展開。活動弁士・片岡一郎氏による無声映画説明会「シアター13」企画のほか、声優論『仮声のマスク』(『アーギュメンツ』連載)、Vtuber論を『ユリイカ』2018年7月号(青土社)に寄稿。『アーギュメンツ#2』では編集長、『アーギュメンツ#3』では仲山ひふみと共同編集を務めた。

仲山ひふみ(なかやま・ひふみ)@sensualempire
 1991年生まれ。批評家。主な寄稿に「『ポスト・ケージ主義』をめぐるメタ・ポレミックス」(青土社、『ユリイカ』2012年10月号)、「聴くことの絶滅に向かって――レイ・ブラシエ論」(青土社、『現代思想』2016年1月号)など。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程に在籍。現在、レイ・ブラシエ『ニヒル・アンバウンド』(今秋出版予定)の共訳に取り組んでいる。

波勢邦生(はせ・くにお)@peroristantism
 1979年生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程キリスト教学、所属。研究テーマは「賀川豊彦の終末論」。https://note.mu/wwwww

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