【宗教リテラシー向上委員会】 性的「指向」は「矯正の対象」か? 川島堅二 2018年11月11日

 小学校1年から4年までわたしの担任は若い独身の女性教師F先生だった。入学したばかりのころ、「学校ではわたしをお母さんと思ってください」と言われたのを今でも覚えている。優しい先生だったが、給食を残さず食べることに関しては厳しかった。昼休みが終わっても、全部食べるまで片付けさせてくれなかった。

 ある日の献立がおでんだった。O君はそれがなかなか食べられず、一人残されていた。体を震わせながら懸命におでんを口に運んでいたが、ついにトレーの上に全部もどしてしまった。体が拒否したのだ。吐しゃ物の強烈な臭気と蒼白になったO君の顔が今も忘れられない。

 もう半世紀前のことだ。今ならO君のようなケースは食物アレルギーとして認識され、強要してはいけないということが常識だが、当時は「好き嫌いをしない」「出されたものは残さず食べる」ことが美徳であり、普段は優しいF先生もO君の将来を思い、心を鬼にして彼の「好き嫌い」を矯正しようとしたのだろう。

 確かに嗜好のレベルであれば、本人の健康のために矯正した方がよい、時には矯正しなければならない場合がある。飲酒や喫煙はその典型だろう。しかし、好き嫌いといった嗜好のレベルではなく、それがその人の存在の一部ですらある場合、矯正は時として心身の健康を損なう深刻な事態になる。

 雑誌『新潮45』で衆議院議員の杉田水脈氏が、性的指向である同性愛をあえて「性的嗜好」として論じたことは記憶に新しい。曰く「(同性愛は)性的嗜好の話です。(中略)女子校では、同級生や先輩といった女性が疑似恋愛の対象になります。ただ、それは一過性のもので、成長するにつれ、みんな男性と恋愛して、普通に結婚していきました」(『新潮45』8月号)。

 文芸評論家の小川榮太郎氏も杉田氏を弁護して言う。「LGBTとは何なのか。レズ、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー、そもそも性的嗜好をこんな風にまとめることに、何の根拠もない。(中略)こんなものは医学的、科学的な概念でもなく、ましてや国家や政治が反応すべき主題などではない。文学的な、つまり個人的、人生的な主題である」(『新潮45』10月号)

 翻ってキリスト教界はどうであろうか。この半世紀だけを見ても同性愛者に対する認識は大同小異と言わざるを得ない。「(同性愛は)神の戒めへの注目がなされない時に起こるところの、肉体的・精神的・社会的な病気である。(中略)(同性愛者には)熟練した医師的・牧会者的配慮が望ましい」(カール・バルト『教会教義学Ⅲ―4, 創造論』1951年)。「結婚や家族にとって出産の意義を無視すべきではない。(中略)原理的に子供を排除した結婚はあるべきではないであろう」(近藤勝彦『キリスト教倫理学』2009年)。「なぜそういうこと(同性愛)が現代において表面に出てくるかというと、今、人間は自分中心のものの考え方しかしないでしょう。聖書の言葉よりも、自分の思い、願い、欲望が先なんです」(『聞き書き加藤常昭』2018年)

 もう40年近く前になるが故・井上良雄先生をご自宅に訪ねた折、たまたま同性愛のことが話題になった。その時、先生は「人には右利きもいれば左利きもいる。同性愛もそのように考えればいい」と言われ、左利きのわたしは目から鱗が落ちるような思いだった。わたしの幼少期、左利きはまだ矯正の対象だったが、現在はむしろそのままでというのが一般的である。利き手の違い同様、性的指向の違いもありのままで自然であると、多くの人が認識する社会を願わずにはいられない。

川島堅二(東北学院大学教授)
 かわしま・けんじ 1958年東京生まれ、東京神学大学、東京大学大学院、ドイツ・キール大学で神学、宗教学を学ぶ。博士(文学)、日本基督教団正教師。恵泉女学園大学教授・学長・法人理事、農村伝道神学校教師などを歴任。本年4月より現職。

連載一覧ページへ

連載の最新記事一覧

  • 聖コレクション リアル神ゲーあります。「聖書で、遊ぼう。」聖書コレクション
  • 求人/募集/招聘