座談会「いま国家と宗教を考える」 元オウム幹部・上祐氏と共に牧師が登壇 2018年11月16日

 宗教評論家の篠原聖護氏ら有志の主催による「いま国家と宗教を考える」座談会が11月5日、関西某所で開催され、篠竹清氏(日本ペンテコステ教団マハナイムキリスト教会)が牧師として登壇した。座談会には上祐史浩(ひかりの輪代表)、小林路義(鈴鹿国際大学名誉教授)の両氏も登壇し、若手研究者の山内翔太氏(宗教哲学・現代フランス思想)が司会兼パネラーを務めた。プロテスタント牧師、元オウム真理教の幹部、浄土真宗の門徒、宗教学者がそろう独特なイベントに、約30人が参加した。

 山内氏は、世界的問題として近代国民国家の相対化、宗教の台頭の問題を、平成の終わりを迎えるにあたり総括したい、と開催主旨を説明。日本では「世間」以外の判断軸を持つことが難しいが、宗教は社会的受け入れ先を失った人々に対して、全人格的な包摂の機会を提供していると指摘。宗教のもつ危険性と可能性を登壇者に問うた。

 上祐氏は、オウム事件の渦中にいた者として「信教の自由」と「被害者との和解」、また遵法意識から板挟みにある自己理解を述べて、公安調査庁による「ひかりの輪」への観察処分取り消しを求めた裁判(東京地裁・2018年9月取消判決、東京高裁にて係争中)について語った。

 小林氏は、自身が浄土真宗の門徒であることを明かし、戦後から高度経済成長にいたる社会的状態と新興宗教の関係を解説。オウム事件は、あくまで一側面であるとした。日本的宗教性を明示的な観点からのみ扱うところに近代社会の問題があるとし、靖国神社と「宗教と国家」の類型論について語った。

 篠竹氏は、元ヤクザとして逮捕収監後の求道、親族の死、独居拘禁、精神安定剤の投与を経て、回心にいたるまでの経緯を語り、宗教もヤクザも行き場のない人を受け入れる場となっていると指摘。これらの経験から、牧師であると同時に、福祉施設の支援員として働いており「キリスト教でなくとも地上の生涯を幸いに終えられるならば、それで良いのではないか」と問うた。

 議論は、まず近代社会における「罪を犯した者とその後の問題」が、衝突する複数の主観性の相克として読み換えられた。次に、「罪を犯した者とその後の問題」が、戦後日本をどのように総括するのか、という国際政治における日本の立場問題に重ねられた。その上で、国際的支援、社会的福祉から追いやられてしまう弱者と「無敵の人」と呼ばれるような人々を、宗教はどのように包摂するのか、という方向に展開した。

 山内氏は、近代社会の「許容」と宗教の「赦し」を踏まえながら、国家と同様、宗教がもつ至高性と主権を指摘し、「第二のオウムを生む危険はあれ、社会の物語から外れた人々を包摂し得る未来を考えたい」と総括した。

 宗教と国家の問題は、「信仰と暴力」の問題にも通底する。なお、今月下旬発売の季刊「Ministry」第39号では「『オウム事件』とは何だったのか」を特集する。

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