【伝道宣隊キョウカイジャー+α】 「平和のあいさつ」が苦手です キョウカイブルー 2018年12月1日

 時に教会では「平和のあいさつ」というプログラムが行われることがある。基本的に、この麗しい習慣については否定的ではない。礼拝後や礼拝中に、会堂に集った方々と握手を交わしあいさつをし合う。能動的な礼拝への参加が促されるし、礼拝において主の前に招かれた民であることを具体的に表現する行為だと思っている。

 ただ、わたしはキョウカイジャーとして決定的に未熟なのだ。平和のあいさつに参加する時、どんなに公正に周囲の人とあいさつをしようとしても、必ず主観が入って苦手な人とあいさつする回数は絶対的に少なくなっていると思う。このような姿を自分で見つめることがつらい。キョウカイジャーとはいえ、自分にはその資格がないといつも感じている。

 主の前に等しい友人であり、家族であり、何よりも互いに神の民でありたいと願いつつ、平和のあいさつの瞬間にどうしようもない自我がむき出しにされてしまうことがつらいのだ。頭の中では、この自我を乗り越えて、普段接することのない方と接点をもったり、和解に至るチャンスが提供されているのかも、と理解している。それを乗り越えられない自分は明確に罪人であり、自我に囚われた奴隷である。だからこそ、わたしは神を礼拝せずにはおられない。

 経験上、他者が、人柄だけではなく、共同体の中での立ち位置によって、それぞれ距離感が変わってくるということも知っている。例えば新しい場所に出かけて、役職上関係のない人と出会った時に、その人が本当に心を開いてくれるのは、瞬間ではなく期間だと思っている。わたしという人間の語る言葉、振る舞う行為、選択の優先順位などが総合的に観察されており、その人の信頼という名のコップにわたしという存在が満たされてあふれ出るような時に、その人は信頼においてわたしと出会ってくださる、と思っている。

 押したり、引いたり、試したり。踏んだり蹴ったり、じゃれたりして関わりが醸成されて友人となっていくということもあるだろう。「ベタベタ」と「サラリ」で言えば、わたしは「サラリ」の人間関係を好むタイプだ。キョウカイジャーだって人間だ。苦手があってもいいじゃない。

 ところが先日、とある教会に招かれた時のこと。礼拝が終わるとわたしは教会唯一の出入口に連れていかれた。その教会では礼拝後の交流や委員会というものはなく、礼拝が終わったら速やかに帰るようになっている。そこで出入口に立った当日のメッセンジャー(今回はわたし)は、その日の参列者の全員と平和のあいさつを交わすのだ。背の低くなったお年寄り、車いすの方、こどもを連れたご両親、いろんな背景をもつ人と、その都度その人の目線に合わせ、姿勢を変えつつ握手を交わす。さながら握手会のようだが、その瞬間にお一人おひとりが心を込めたあいさつをしてくださるのだ。

 わたしは彼らの言葉の中に神の慰めのメッセージをいただいたような気がして、とても恵まれていた。逆説的だが、平和のあいさつって、人間の思惑に委ねるのではなく、自動的に全員と握手する仕組みにしちゃえばいいんじゃない? 苦手に変わりはないけれど、必ず全員とするんだったら、できそうな気がする。

キョウカイブルー
 青葉良好(あおば・りょうこう)革新的なテクノロジーには目がないインテリ系電脳牧師。クールに見えて実はツンデレ。電子機器を駆使して仕事をどう能率良くできるか、いつも考えている。メンバー内では最年長。武器:最新型タブレット「なんでもできるホン」/必殺技:プチニンノーダー(整理整頓)/弱点:新型ガジェット

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