【宗教リテラシー向上委員会】 「宗教派」と「世俗派」のあいだで 山森みか 2019年1月11日

 私はほぼ30年にわたってイスラエルに住み、家族を持ち、仕事をしている。このコラムは「宗教リテラシー」がテーマなので、まずは私が日々直面する「宗教」という言葉について考えを巡らせたい。

 イスラエルという国はさまざまな意味で興味深い場所である。人口は、私が住み始めた1980年代半ばは400万人台だったが、今では800万人を超えている。そのうちユダヤ教徒(ユダヤ人)は75%、それ以外にイスラム教、キリスト教、ドゥルーズ教などの人々がいる。

 この国では、諸個人がどの宗教に属するかは出生あるいは永住権等の取得と同時に内務省に登録される。今は個人情報保護のため各自が常時携帯するIDカードには記載がなくなったが、かつてはそこに自分の属する宗教が明記されていた。つまりこの地における宗教とは個人の問題というだけではなく、まずは国家に登録されたステータスなのである。

 国民の多数を占めるユダヤ人の定義とは、ユダヤ人の母親から生まれた者あるいはユダヤ教に改宗した者である。ということは、多くのユダヤ人は血統によるユダヤ人であり、自らの意志でユダヤ教を選択したわけではない。ゆえに「ユダヤ教徒」という日本語は、時として誤解を招く。「ユダヤ教」を特に信じているわけではない「ユダヤ人」も数多く存在するからである。

 ユダヤ人の中では一般的に、戒律を守っている人々を「宗教派」、そうでない人々を「世俗派」と呼ぶ。宗教派の中にもグラデーションがあり、男性は特徴のある帽子やコート、女性は髪を覆って長袖長スカートを身に着けている超正統派から、世俗派とあまり見分けがつかない人もいる。また規定をどこまで守るかも異なっている。世俗派においても、あらゆる宗教儀礼を拒否する無神論者から、祭日などの行事にはある程度コミットするが安息日や食物規定は守らないという人までさまざまである。また宗教派だった人が何かのきっかけで世俗派になることもあるし、その逆もある。つまり目の前に一人のユダヤ人がいたとして、その人がいったいどこまで宗教及び戒律にコミットしているのかは、本人に聞いてみるまで分からない。

 日本語で「世俗」と言うと「俗っぽい」という意味になり、どちらかといえば世間に流されているという感じがするが、宗教が確固として存在している場所における世俗とは、「自分は宗教的な規範に積極的にコミットしない」という明らかな宣言である。そしてユダヤ人社会において宗教派と世俗派のあいだには、時には激しい対立がある。例えば安息日を遵守する人々にとって、安息日に店を開けたり車を運転したりする世俗派の行動は耐え難い。基本は居住地を分けることで衝突を回避しているのだが、宗教派の中でも超正統派(全体の約10%)は徴兵や納税義務を逃れているため、世俗派から激しい批判を浴びている。また超正統派の性的マイノリティに対する態度も問題視される。

 この地におけるユダヤ教世俗派の人々は、決して宗教に関心がないわけではなく、自らの生き方としてあえて宗教にコミットしない立場を選び取っている。それは宗教にコミットする生き方を選び取った人たちとパラレルかつ等価な決断だと言ってよい。つまりここでの「宗教リテラシー」とは、宗教派と世俗派双方の決断を尊重しつつ、どうすれば両者がよりよく共存できるのかという切実なテーマへの取り組みでもある。

 お盆にクリスマス、新年を祝う日本における宗教リテラシーは、どこから始まるのだろうか。

山森みか(テルアビブ大学東アジア学科講師)
 やまもり・みか 大阪府生まれ。国際基督教大学大学院比較文化研究科博士後期課程修了。博士(学術)。1995年より現職。著書に『「乳と蜜の流れる地」から――非日常の国イスラエルの日常生活』など。昨今のイスラエル社会の急速な変化に驚く日々。

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