【空想神学読本】 時代の想像力としての「神学」を空想する Ministry 2019年2月・第40号

 第23号(2014年)以来、全12回にわたって連載してきた「空想神学読本」。今回は映画「来る」を題材に、特別編として、サブカルチャーを「神学する」意義を改めて考察する。 

 日本的な「キリスト教」への見方、または「宗教」観を描いた作品には何があるだろうか。たとえば、遠藤周作『沈黙』がある。これは、キリスト教伝来という、日本にとっての異物摂取の顛末を描く作品である。

 最近でいえば、2018年クリスマス公開の映画『来る』(中島哲也監督)がある。本作を要約すれば、松たか子扮する「卑弥呼」率いるジャパニーズ霊能アベンジャーズVSキリスト教となる。130分超、長めの映画ながら観客を退屈させない。複数の一人称がリズミカルに切り替わり物語を立体化する。70年代『あなたの知らない世界』から90年代『世にも奇妙な物語』『リング』、そしてゼロ年代『着信アリ』に象徴される Jホラーを総括する意気込みが外連味となっている。1999年という暗雲が晴れてしまった21世紀にふさわしく、恐怖のガジェットはスマホとブログだ。『エクソシスト』など海外ホラーも随所に引用されている。ホラー特盛り全部載せ、ゾンビ映画でいう『W.W.Z.』である。

 しかし、クリスチャン目線では、映画『来る』は、イエス・キリストの生誕物語に映るだろう。物語は、一組の夫婦が結婚、懐妊するところから始まる。ブログ上で「イクメン」を装うことで現実逃避するしかない夫、夫に愛想を尽かし、不倫に走り、育児ノイローゼとなった妻。夫が隠し続けた、地元での神隠しの真実にからむ謎の怪異が、この夫婦と周辺の人物を襲う。そこに、ライター稼業のクズ人間が現われて、霊媒師を紹介し「来る」怪異と対決する。しかし、劇中でも、怪異の名前は冒頭に出てくるだけで、結局、最後まで何が「来る」のか、よく分からない。従って「恐怖」それ自体の到来が「来る」ことが、本作の主題だろう。

 では、なぜ「恐怖」の到来が、日本的なキリスト教への見方と宗教性を表しているのか。まず本作は、冒頭から一貫して「家族の形成」を描く。怪異に出会った夫妻、怪異に連れて行かれる子どもは「家族の形成」に失敗している。霊媒師の姉妹は愛憎入り組む関係だ。家庭を形成し損ねた二人の独身男性も登場する。しかし「家族の形成」は、主題ではない。最終幕は、家族を作れない者たちが、家族を形成して「子どもの夢」で閉じられる。

 その子どもは、大好物であるオムライスを食べるためだけに、劇中で描かれる凄惨な有様そのままにケチャップをまき散らす。「家族の形成」に伴う暗い側面が、劇中の死傷者数と流血に重なっている。「子ども」という次世代、「来るべき」未来を迎えることに含まれている問題と潜在的課題が、呪いのように噴き出している。しかし、その呪いに応えてはならない。答えてしまうと、呪いのままに操られてしまう。弱く傷ついた者は、そのまま呑みこまれ、取りこまれてしまう。一人の子どもの到来によって決定的に変化する未来が「来る」ことへの恐怖が描かれている。すなわち、本作の主題は、恐怖の抽象的な本質、「個人では理由付けしようのない不安」である。

 ここに「日本の宗教性」が現われている。それは「繰り返し現れる、得体の知れない何かへの予感」である。キリスト教の場合は、究極の到来、終末が「来る」。それゆえ終末への備えは歴史を形成する。しかし、日本では季節のようにそれらが「来る」のだ。だから、もてなし、ありがたがり、過ぎ去るのを待つことで「はらう」しかない。唯一の究極的終末が来るアブラハムの宗教と、複数の超越が季節のように巡り「来る」非アブラハムの宗教圏・日本の差が現われている。

 最後の語り部となるオカルト・ライターは、クリスマス・ソングの響くコンビニに入ってのち、家族を形成する。店内では「Joy to the world」が流れている。劇中、キリスト教に関連するものが出てくるのは、この場面を含む三つだけだ。一つはクリスマス・ツリー、もう一つが事件の舞台となるマンションの簡素なイルミネーションである。劇中、怪異はクリスマスの電飾輝く道路をとおって「来る」。

 怪異と対峙するために集められた霊能者たちの中には、聖書も教会も聖職者も見当たらない。季節の飾り付けとしてのみ、キリスト教は描かれる。この排除されたキリスト教描写こそが、日本の宗教的状況を示している。裏返していえば、怪異に準えたキリスト教の到来を、日本人が思う典型的な霊能者たちが迎え撃つ構図が読み取れる。すなわち、本作は、世界と対峙する救世主キリストの降誕物語であり、同時に、日本におけるキリスト教受容の戯画化でもあるのだ。

 聖家族のようにも見える終幕は、新たな「家族の形成」である。しかし本作は、家庭が生まれるまでに繰り返し訪れる恐怖を、家族や身内の声で描いている。恐怖の理由と表象は、意図的に「家族」に委ねられている。怪異の声と顔、恐怖の正体は家族である。家庭形成すなわち未来への期待と「恐怖」という生の実感は、劇中、痛みとして読み換えられている。その痛みは、出産を中心に「家族の形成」にまつわる痛みのすべてだ。

 語り部であるオカルト・ライターは中絶を強いて愛する女性を傷つけた過去を持つ男である。結果、中絶され、殺された子どもたちのあり得た生の可能性とその執着、無数の「未来」が「恐怖」として、彼を襲う。数多の子殺しが世界を創る構図が、血塗れのキリスト生誕物語と合致する。

 「さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」(マタイによる福音書 2章16節)

 新たな「家族の形成」のために虐殺があった。無数の子どもたちのあり得た生は閉ざされて、ひとりの子どもに託された。しかし、その子どもが夢見る世界はケチャップの代わりに血が撒き散らされるものかもしれない。それは、キリスト教日本伝来の結果としてのあらゆる惨事を暗示しているようにも見える。そんな得体の知れない何かが「来る」ことへの「恐怖」を、映画『来る』は描いている。それゆえに、本作は、キリスト教VSジャパニーズ霊能アベンジャーズとして、読み換えが可能である。

 本連載「空想神学読本」は、1995年以来の『空想科学読本』の着想をパクり、神学に適用する実験場だ。『空想科学読本』は、マンガ、アニメ、特撮、SFなどのヒーロー、怪獣、その設定を考察した。同様に「空想神学読本」は、サブカルチャーの中にキリスト教、聖書、教会、十字架の影を見出す試みである。それは、ユダヤ教の律法・預言者・諸書を、福音のもとで再解釈して宣教した初期キリスト教以来の伝統でもある。教会は新たな土地、言語、文化に出会うたびに、それらを福音の光のもとに再解釈し、統合し、または排除してきた。言い換えれば。「福音による文化読み換えの試論」こそ、空想神学の本質である。

 しかし、空想神学が牽強付会の我田引水であってはならない。聖書学でいうならば「eise-gesis:読み込み」と「exe-gesis:解釈」の区別を保たなくてはならない。そのためには、設定した視点と作品のもつ多様な文脈への想像力、それらとの距離が必要である。空想神学が「読み換え」に過ぎないことを自覚しなくてはならない。絶対なる神の言キリストが弱い幼子として生まれ、十字架で罪人として術なく殺されたように、相対性という謙虚さが求められるのだ。

 「ホラー映画やアニメを神学用語に翻訳して解釈するとこうなる」と語ることは構わない。しかし、翻訳して読み換えることで失われる含蓄や文脈を忘れてはならない。それらを忘れないことが、多様な文脈への想像力の起点となる。そして、その点と点が繋がり、拡張することで、複数の解釈が同時に立ち上がる対話の場が生まれる。その場が積み重なると、文化に高さと深さがもたらされる。この高さと深さは、キリストの体の広さ、長さにも重なっていくだろう。

 映画『来る』はさまざまに解釈できる。キリスト教と日本の宗教性、つまり「外来思想の受容」として論じることもできる。フェミニズムの観点から、または、登場するユタから沖縄論を語ることさえできる。映像論、作家論としては言うまでもない。すなわち、神の被造物たる人類による継続的「創造」としての作品『来る』は傑作だ。なぜなら、何かしら無限なる神を表しているからだ。その無限さは、数多の解釈に開かれている「開放性」にこそ現われる。

 考えてみれば、それこそが「宗教」と「文学」の持つ最大の機能だ。どちらも、ぼくらの等身大の現実に別の角度からの視点と価値の軸、物語を持ち込んでくれる。それゆえ、自己も家族も、教会も社会も、国家も宇宙も相対化される。超越は、そのような形で顕れる。はち切れんばかりに膨張した傲慢な自我ではなく、それが破裂してしぼんだ後に訪れる真空に、神の創造力と人類の想像力の騒擾効果が現われる。「空想神学」、それは、エデンの風が声に聞こえたあの瞬間のように、人類という巨大な異形の家族の未来に「恐怖」の形で、すでに、今、そして、やがて「来る」ものなのだ。

(波勢邦生)

【作品情報】

来る

 オカルトライター・野崎のもとに相談者・田原が訪れた。最近身の回りで超常現象としか言いようのない怪異な出来事が相次いで起きていると言う。田原は、妻・香奈と幼い一人娘・知紗に危害が及ぶことを恐れていた。野崎は、霊媒師の血をひくキャバ嬢・真琴とともに調査を始めるのだが、田原家に憑いている「何か」は想像をはるかに超えて強力なモノだった。

■原作 澤村伊智『ぼぎわんが、来る』(角川ホラー文庫刊)
■監督 中島哲也
■脚本 中島哲也 岩井秀人 門間宣裕
■出演 岡田准一、黒木華、小松菜奈、青木崇高、柴田理恵
     太賀、志田愛珠、蜷川みほ、伊集院光、石田えり
     松たか子、妻夫木聡
■配給 東宝

全国東宝系にて公開中。

 

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【Ministry】 特集「10年目のリアル」 40号(2019年2月)

©2018「来る」製作委員会

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