【映画評】 『わたしはヌジューム、10歳で離婚した』 児童婚の実態から見える普遍性 Ministry2019年2月・第40号

 イエメンを舞台とする本作は、児童婚の風習により10歳で結婚させられた少女の受難と克服の物語だ。実話をベースとし、自身も11歳で結婚を強制された過去をもつ女性監督が撮る映像は細部まで迫真性に満ちている。また田舎の部族因習と都市インテリ層との意識格差、伝統的な儀式作法や裁判官の家庭描写など、極めて構築的に生活の諸相を見せる手際は新鮮だ。

 アラビア半島南端に位置し、紅海とインド洋に面するイエメンは、ソロモン王を魅了したシバの女王の国として聖書やクルアーンにも登場する。2011年「アラブの春」以降、荒壁土の小塔並ぶ風光明媚なこの土地を襲う混迷はシリアより凄惨とされながら、詳細が報じられることはほとんどない。アルカイダやISなど武装勢力の温床になったイエメンは、2015年の隣国サウジアラビアの軍事介入により、イランやトルコなど地域大国を巻き込んだ代理戦争の地とも化している。

 2014年制作の本作は、こうした見えにくい当地の社会状況を理解するための手がかりを与えてくれる。イエメン純正映画としては日本初公開となる本作上映を企画した「イスラーム映画祭」主宰の藤本高之さんは、今春で4回目となる同映画祭を運営する中で、宗教に対する見方が変わったという。藤本さんは語る。「今日では宗教が人間を縛っているのではなく、『宗教』という枠組みへ厄介事を押し込めているだけではないか。女性の権利やパレスチナを巡る問題も宗教を原因とみなすと思考が止まり、自分は関係ないと目を背ける理由になる。そうではなくその奥にこそ、人類が共有できる問題の鍵があるのでは」

 例えば夫の暴力へ抵抗するヌジュームに対し、義母はひたすら敵対的な態度をとる。自分もたどってきた道で仕方ない、女の人生とはそういうものという義母の諦めが、幼少の嫁へ向けられた怒りの根源に見え隠れする。またヌジュームの実兄は幼くして失踪するが、事実上の人身売買によりサウジの大邸宅で働かされていたことが明らかとなる。

 これら性差別における女性自身による内面化や誘拐同然の丁稚奉公などは日本でも起きてきたし、今日の性的不祥事や外国人技能実習制度の実態からもうかがえるように、形を変え今後も起こり続けるだろう。異文化を知る体験は、自文化への理解を常に深化させる。自らを構成する要素を深く理解することは、人間という普遍を知ることに通底する。映画はその鍵へと至る最良の端緒となる。

 ちなみに映画の原作『わたしはノジュオド、10歳で離婚』は日本語訳もあり、映画版では省かれた詳細が興味深い。ノジュオドはベドウィンの言葉で「隠された」の意、ヌジュームは「星」の意。児童婚の実態を明るみへと引きずり出し、後に続く少女たちの希望となった1998年生まれのヌジュームは、2008年に離婚、改名を経て現在二児の母になっているという。彼女の暮らしの平穏と、イエメン内戦の終結を祈らずにいられない。(ライター 藤本徹)

 2019年春開催の「イスラーム映画祭4」(渋谷ユーロスペース:3月16日~3月22日、名古屋シネマテーク:3月30日~4月5日、神戸・元町映画館:4月27日~5月3日)で上映予定。

 

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【Ministry】 特集「10年目のリアル」 40号(2019年2月)

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