【宗教リテラシー向上委員会】 内なる「異端」を警戒せよ 川島堅二 2019年5月1日

 キリスト教会で説教などに引用される「ドナウの跳ね橋」という話をご存じだろうか。「跳ね橋」とは船がその下を通る際に橋が跳ね上がる仕組みの橋で、要約すると以下のような内容だ。

 ヨーロッパのドナウ川に架かる跳ね橋の管理をしている男がいた。その男には独り息子がいて、跳ね橋のワイヤーを巻き上げる作業を手伝っていた。跳ね橋が上がり、船が通ると、船上の人々は親子に向かって笑顔で手を振るのだった。ある日のこと、船が近づいたのでいつものように父親は跳ね橋を上げようとした。すると、あろうことかワイヤーを巻き上げる機械に息子が落ちて挟まっているではないか。このままワイヤーを巻き上げれば息子は巻き込まれて死んでしまう。しかし、巻き上げなければ船は橋げたに激突して船上にいる多くの人のいのちが失われる。船は刻々と近づき息子を助けている時間の余裕はない。そこで父親はワイヤーを巻き上げた。跳ね橋は上がり、船は無事に通過した。何も知らない船上の人々はいつものように笑顔で手を振っていた。

 うかつにも最近まで私はこの話を知らなかった。数年前、出席していた教会の礼拝説教で引用されて初めて知った。その説教者は「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ福音書3:16)という福音の本質が腑に落ちて分かった例話として引用されたのだが、私には強烈な違和感が残った。その違和感の理由をその後、ずっと考え続けている。

 イエス・キリストの十字架上での死は、確かに跳ね橋のワイヤーに巻き込まれる轢断死と同じくらいに酷く苦痛に満ちたものだったろう。しかし、その死は「ドナウの跳ね橋」のような不慮の事故ではない。イエスは30歳を過ぎた分別ある成人で、自らの信念に基づいて当時のユダヤ教の律法を犯してまで隣人愛を実践し、ついには祈りの場である神殿で商売を行っていた人々を、有形力を行使して排除するデモ行為により逮捕され処刑された。それはイエス自身覚悟の上の死であった。

 その約300年後のニカイア公会議以降成立する正統教義に照らしても、この例話には致命的な欠陥がある。すなわちこの教義によれば、父なる神とその子イエスは「本質において同一」「分割されることも引き離されることもない」。この例話のようにワイヤーに挟まれ、なすすべなく轢断死する息子を上から眺めている父親という図は、公会議で異端として排斥されたアリウス派(父なる神とその子イエスは「同一」ではなく「相似」と主張)やネストリウス派(イエスにおける神性人性の「同居分離」を主張)にむしろ近い。

 「ドナウの跳ね橋」でネット検索をしてみると、いくつかの教会の説教がヒットする。さらに教会付属の幼稚園の月報に紹介されたりもしている。教会学校で子どもたちに語られた形跡もうかがえる。この例話を聞かされた子どもの気持ちを想像すると背筋が寒くなる。大人がこれを聞けば、何も知らずに跳ね橋を通過する船上の人々に自らを重ねるだろう。しかし、子どもはどうだろうか。おそらくワイヤーに挟まれたまま父親に見殺しにされる息子に自らを重ねるのではないか。

 これは子ども心にいたずらに恐怖を植え付ける宗教の乱用(abuse)である。abuseは「虐待」とも訳し得る言葉だ。子どもに対しては、体罰や性的虐待のような明白な暴力のみならず、一見、信仰深い装いをして私たちの教会に忍び込む「異端」による虐待を警戒しなければならない。

川島堅二(東北学院大学教授)
 かわしま・けんじ 1958年東京生まれ。東京神学大学、東京大学大学院、ドイツ・キール大学で神学、宗教学を学ぶ。博士(文学)、日本基督教団正教師。10年間の牧会生活を経て、恵泉女学園大学教授・学長・法人理事、農村伝道神学校教師などを歴任。

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