【宗教リテラシー向上委員会】 大人が子どもに刃を向けるとは 川島堅二 2019年6月21日

 混雑する通勤・通学時間帯に小学生を含む多数の人々が刃物で殺傷されるという、あってはならない事件が首都圏で起こってしまった。無防備な子どもに大の大人が明確な殺意をもって刃(やいば)を振るうなどということは、いかなる理由でも許されることではない。

 このニュースを聞いて、図らずも思い起こしたのは、勤務先の大学で学生から時折聞かされる次の言葉だった。「聖書って意外とグロい(残虐で暴力的の意)ことが書かれていて驚きました」

 初学者向けの授業だから取り上げている内容は、聖書を理解する上で最低限必要な知識。旧約聖書なら、天地創造、ノアの箱舟、アブラハムの召命と旅立ち、モーセの生い立ちと出エジプト、十戒、新約聖書では、イエスの生涯と教え、死と復活、パウロの教えと伝道旅行などである。

 そのような入門的な物語や出来事にも「グロい」場面はある。例えばモーセの物語、過越しの夜の出来事。少なからぬ学生が「小羊を殺してその血を玄関柱と鴨居に塗るなんて気持ち悪いし羊がかわいそう」と言う。続く神によるエジプト人の初子の殺害、そして、イエス誕生時、ヘロデ王の男児殺害令なども「そこまでしなくても」というリアクションが必ずある。

 ただこれらについては、動物供犠という古代の宗教文化的背景や、同害報復という旧約の律法の考え方、いつの時代にもある権力者の自己保身として相対化することで学生たちも納得する。しかし、アブラハムによる息子イサクの奉献(創世記22章)はどうだろう。

 多くのキリスト教徒にとってこれは信仰の模範的行為とされている。しかし、どこが模範的なのか。神の命令なら我が子に刃を向け殺害することも厭わないということなのか。そうだとしたら「それって教祖の命令で地下鉄にサリンを散布したオウム真理教の信者とどう違うのですか?」と問う学生に、何と返したらよいのだろう。

 聖書の教師として力量が問われるのは、このような場面である。私自身は神学生時代、旧約学の左近淑教授から学んだ解釈を基に次のように答えることにしている。

 この物語の冒頭に「神はアブラハムを試された」とある。アブラハムは何を試されたのか考えてみよう。この物語の柱として三つの問答がある。まず神とアブラハムの問答(1~3節)、次にイサクとアブラハムの問答(7~8節)、最後に主のみ使いとアブラハムの問答(11~12節)。同じ形式(神の命令とアブラハムの服従)の第1と第3の問答が第2の問答を囲い込んでいる。さらにその内側、第2の問答の直前直後にこれもまったく同じ表現「二人(アブラハムとイサク)は一緒に歩いて行った」による囲い込みがある。

 つまり、構造的にこの物語の中心は、この第2の問答である。息子イサクの「捧げ物にする小羊はどこにいますか」という問いに父アブラハムがどう答えるか、ここにこそアブラハム最大の試練があった。彼はこの問いに「小羊はきっと神が備えてくださる」と応じることでこの試練にパスした。あとはアブラハムが答えたとおりに物語は展開していくだけだ。息子を縛り上げ刃物で殺害しようとする場面は、一見この物語の山場のように見えるが、対応が「殺すか否か」という二者択一しかない試練は、試練の質としては低級で、物語全体の構造から読み解けばポイントはそこではないことが分かる。

 古代の文書である聖書を読み解く際には、いたずらに恐怖心を与えない工夫が、弱者に対する暴力的な事件が頻発する昨今、いよいよ求められている。

川島堅二(東北学院大学教授)
 かわしま・けんじ 1958年東京生まれ。東京神学大学、東京大学大学院、ドイツ・キール大学で神学、宗教学を学ぶ。博士(文学)、日本基督教団正教師。10年間の牧会生活を経て、恵泉女学園大学教授・学長・法人理事、農村伝道神学校教師などを歴任。

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