大頭眞一の「焚き火」日記【1】火山先生ノ巻 2019年7月1日

 なんとなく、「焚き火」日記が始まった。なぜ「焚き火」なのか。ぼくにはぼんやりとしか分からないのだが、小山平恵氏がうまいことを言っているので引用したい。なお、この日記に登場する人物は実在の人物であるが、みな仮名である。例えば、小山平恵氏とは小平恵氏のことだ。あれ? とにかく、小山平氏は言う。

 「北海道で育った私は、幼い時から薪ストーブの焚き付けが子どもの仕事でした。固くしぼった新聞紙の上に焚き付けの木っ端を置き、十分燃え上がったところで、秋に割って乾燥させた薪を積んでいき、次第に炎が高く燃え上がる様子を飽きもせず眺めていたものでした。焚き火には、確かに人の心をつかむ力があるのです。(中略)焚き火を囲んで丸く輪になる時、人々は隣り人と近くで語らい、燃え上がる炎をともに見つめながら、あるいは互いの瞳に映るその火炎を見つつ、心の奥の様々な思い巡らしを問わず語りに分かち合うことができるのでしょう」(『焚き火を囲んで聴く神の物語・対話篇』ヨベル)と。つまりそういうことだ。

 ぼくには小さな悩みがある。それは火山先生のことだ。「かざんせんせい」だ。火山先生とはもう7年、月に1度一緒に聖書を読んでいる。毎月の第四土曜日だ。聖書を読んで、ぼくが語る。すると先生は必ず「むずかしいですなぁ」と言うのだ。初めのころ、ぼくは自分を責めた。先生が「むずかしいですなぁ」と言うのは、①ぼくに祈りが足りず霊的でないから、②ぼくの学びが足りず核心にふれていないから、③ぼくのコミュニュケーションがなっておらず届く言葉を用いていないから、のどれかのうちの一つではないかと思ったのだ。

 けれども、7年間で計84回の「むずかしいですなぁ」を聞いているうちに分かってきたことがある。それは先生の「むずかしいですなぁ」にはいろいろあるということだ。例えば、小さくほっと溜息をついてから「むずかしいですなぁ」と言う時は、本当に難しいと思っている時だ。目を泳がせながら「むずかしいですなぁ」と言う時もあるのだが、これはちゃんと聞いていなかったことをごまかそうとする時だ。時には、ゆっくりと「むずかしいですなぁ」と言う。これは、ほぼ「よく分かりました。深いですなぁ。心を動かされました」という意味だ。

 ところがある日、先生は「今日のはよく分かりました」と言ったのだ。ぼくも他の近所の人々も、なんだか物足りなく思った。

 今回で打ち切りになるかもしれないので、言っておきたいことがある。ぼくが、こうしてメディアに登場したりSNSに投稿したりするのは、路傍伝道の一種なのだ。映画の『塩狩峠』では雪玉が飛んでいたが、ネットだって炎上する。ええかっこしいで目立ちたがりでいるのも、それなりにたいへんなのだ。(つづく)

 おおず・しんいち 1960年神戸生まれ。北海道大学経済学部卒業後、三菱重工に勤務。英国マンチェスター のナザレン・セオロジカル・カレッジ(BA、MA)と関西聖書神学校で学ぶ。日本イエス・キリスト教団香登教会伝道師・副牧師を経て、現在、京都府八幡市の明野キリ スト教会牧師、関西聖書神学校講師。著書に『聖書は物語る 一年12回で聖書を読む本』『聖書はさらに物語る 一年12回で聖書を読む本』、共著に『焚き火を囲んで聴く神の物語・対話篇』(ヨベル)、訳書にマイケル・ロダール『神の物語』(日本聖化協力会出版委員会)、マイケル・ロダール『神の物語 上・下』(ヨベル)などがある。

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