【宗教リテラシー向上委員会】 ノンポリ参院選と「主の祈り」 波勢邦生 2019年7月21日

 7月21日、第25回参議院議員通常選挙。ノンポリながら、繰り返される選挙のたびに「政治と宗教」の関係、「宗教政党」の可能性を考えている。クリスチャンで参院選といえば、1977年7月10日の第11回参院選。そう、武藤富男(1904~1998年)の「日本キリスト党」である。

 キリスト教社会事業家で本紙創刊者である賀川豊彦(1888~1960年)の弟子、元官僚の武藤が「政治に良心を!」と訴えて結党したまではよかったが、あっさり落選した。平和外交、軍備撤廃、世界連邦建設、倫理教育、教育拡充を掲げたが、一度きりの出馬となった。政策を見れば、賀川の路線を引き継いでいた。「政治家」としての賀川のあり得た可能性を、武藤は追求したかったのかもしれない。今でも古本屋で約70ページの小冊子『日本キリスト党(仮称)結成の提唱』(キリスト新聞社、1976年)を見かけることがある。

 世界を見渡せば、宗教政党は数多ある。日本の「宗教政党」といえば、創価学会を背後にもつ「公明党」が挙げられるし、幸福の科学の「幸福実現党」が有名だ。オウム真理教の「真理党」も、同じく宗教政党である。厳密には違うが、世界経済共同体党代表の又吉イエス(1944~2018年)は、今回の参院選前日に1周忌を迎えた。公明党は政権与党であり、幸福実現党も30人を超える地方議員を擁している。又吉イエスに至っては何度落選しても出馬した。「政治」への意思を見てとれる。

 転じてキリスト教に目を向ければ、過去「内閣総理大臣」を務めたキリスト教徒に、原敬、片山哲、鳩山一郎、大平正芳、麻生太郎らがいる。しかし、彼らが教会内で好評を博しているとは言い難い。つまり、シンプルに「キリスト教徒」であるだけでは、教会と信者のお眼鏡には適わない。「クリスチャン」でなくては支持できない。しかし「クリスチャン」の意味が融通無碍なのだ。個々人によって、時勢と気分によって違う。武藤富男の落選はやむを得ない。

 キリスト教と政治の関係を考えている。神の立てた権威に従うべきだと命じる「ローマ人への手紙」13章の解釈は、有名な問題だ。また「第一テモテの手紙」2章では、使徒パウロが、政治家と公務員のために祈り感謝することが、そのまま敬虔を伴う平穏な一生を送ることにつながる、と教える。他にも政治に関する章句は多い。結論から言えば、歴史的に見て、キリスト教はあらゆる政治体制と主張を支持したし、共存してきた。

 一概に「聖書には、こう書いてあるから、~党支持である!」とも「~政権反対!」とも言えない。聖書に根拠を求めて政治を語るのは、論理ではなく信仰である。信仰であることは構わない。しかし、その言葉は、信仰の外にいる人々には決して届かない。

 無論、社会の周辺・底辺において弱く小さくされた人々の側に立つことは、キリスト教史と聖書から見て正しい。しかし同時に「宗教の機能」を忘れたくない。宗教は、政治よりも息が長い。伝統宗教は、政権が何度変わろうと、国家が滅ぼうと変わらぬもの――神、仏、超越などと呼ばれる長大な視点と射程を持っている。それゆえに「現在」を歴史的に相対化できる。歴史を修正するという意味ではない。宗教は、現在を生きる個々人の視点と射程に余白を与えられるのだ。その余白こそが、熱くなりがちな「政治」に冷徹な視点と憐れみをもたらす。その冷徹さと憐れみの姿勢だけが、信仰の外にある人々と宗教政党を考える人々の接続点となる。

 そんなことを考えながら「主の祈り」を思い出した。「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」

1936年(昭和11年)、貴族院本会議にて勅語奉答文を朗読する議長・近衛文麿

波勢邦生(「キリスト新聞」関西分室研究員)
 はせ・くにお 
1979年、岡山県生まれ。京都大学大学院文学研究科 キリスト教学専修在籍。研究テーマ「賀川豊彦の終末論」。趣味:ネ ット、宗教観察、読書。

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