NCC総幹事ら 「平和の共同メッセージ」で警鐘 2019年8月15日

 日本キリスト教協議会(NCC)の金性済(キム・ソンジェ)総幹事とNCC内の人権・平和を扱う諸委員会は8月15日、平和を願う共同メッセージを発表した。メッセージは、戦後「国家神道体制に抗えず取り込まれる道を歩んだことを、神の前に深く懺悔する信仰告白」「国家神道体制への屈従と大日本帝国の戦争と植民地支配の反省の信仰告白」 によって立てられた団体として、「イエス・キリストからゆだねられた平和をつくりだす使命への自覚」を新たにすると宣言。天皇の代替わりにあたって「過去の歴史の過ちを繰り返さないという歴史認識と共に、聖書の教えと日本国憲法の保障する個の尊厳と自由の権利という立憲民主主義の根幹を守り抜くために、国家行事としての大嘗祭という憲法違反とそこにはらまれる危険を見抜くことによって、主に祈りつつ世の人々にその問題の深刻さを訴え続けていかなければ」ならない、「日本の将来における核兵器開発の道を許さず、また日米安保体制下で戦後一貫して従属させられて来た日本の軍事大国化への道を封じる最後の防波堤としての憲法9条の精神の重要性を、わたしたちは今こそ一層強く自覚しなければならない」と警鐘を鳴らしている。全文は以下の通り。


平和の共同メッセージ2019

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェソ書2:14-16)

「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」(コリント書II 5:18)

 神のゆるしと慈愛により、1948年に設立された日本キリスト教協議会は、戦前の日本基督教聯盟時代に、天皇制国家神道体制下におけるキリスト教会の翼賛化を容認していき、日本基督教団成立(1941年)によって自然解消となる時まで、国家神道体制に抗えず取り込まれる道を歩んだことを、神の前に深く懺悔する信仰告白に立ちます。そして、国家神道体制への屈従と大日本帝国の戦争と植民地支配の反省の信仰告白を根底に据えながら、戦後日本キリスト教協議会の設立を許され、神に導かれ、今日、エキュメニカルに諸教派と教会・団体と共に宣教の使命を負うものです。

 平和を祈念するこの8月に、わたしたちは、この日本の内外の激動の中で、いま改めて平和の意味を問い、わたしたちの信じ、仕える主イエス・キリストからゆだねられた平和をつくりだす使命(マタイ福音書5:9)への自覚を、聖霊に励まされ新たにいたします。

 去る5月より、日本においては天皇の代替わりがあり、すでに剣璽等承継の儀が行われ、また11月には、天皇の神格化の儀式ともいえる大嘗祭が国家行事として予定される中、わたしたちは今また、日本国憲法の謳う政教分離原則への抵触の問題の前に立たされています。自民党が2012年に策定した憲法改定案には、政教分離原則を明確に謳う現行憲法の第20条と第89条に新たに但し書きが設けられ、そこには、「ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない」と記されています。わたしたちは、1989年に続き、この度も重ねて、日本政府によって先の剣璽等承継の儀に続き、大嘗祭が国家予算をもって挙行されようとする情勢を考えますと、そこには本来宗教行事以外の何ものでもない大嘗祭の国家行事化を、日本の社会的儀礼、ないし習俗的行為の範疇として合法化し定着化させることによって、憲法20条と89条の本文の政教分離原則への抵触をかわそうとする意図が秘められてあるという思いを禁じえません。これは、紛れもなく日本国憲法の政教分離原則の空洞化を意味する欺瞞行為というほかありません。それはまた、明治憲法下における国家神道が超宗教として国民に義務付けられ、戦前のキリスト教会が神社非宗教論の欺瞞を受容して、大日本帝国の政策に加担することになった歴史を彷彿させます。わたしたちは、政教分離の原則が政治の宗教利用、また宗教の政治利用を防ぐという狭義の問題にとどまらず、さらに信じる自由と共に、信じない自由という、究極的には個の自由権の保障にかかわることを銘記しなければなりません。従って、現行日本国憲法下で、来る11月にまたしても大嘗祭が国家行事として挙行されてしまうことは、憲法の政教分離原則の崩壊と共に、個の信教の自由権の危機を迎えることに気付かなければならないのです。わたしたちは、過去の歴史の過ちを繰り返さないという歴史認識と共に、聖書の教えと日本国憲法の保障する個の尊厳と自由の権利という立憲民主主義の根幹を守り抜くために、国家行事としての大嘗祭という憲法違反とそこにはらまれる危険を見抜くことによって、主に祈りつつ世の人々にその問題の深刻さを訴え続けていかなければなりません。

 このような国内的危機の最中、現在、日本は韓国との関係が戦後最悪の状況に置かれています。去る7月初頭に日本政府が行った半導体関連の三品目に関する、韓国への輸出規制、および8月2日に閣議決定された日本の「ホワイト国」リストからの韓国の除外は、どう理由を付けようとも、これは旧日本軍「慰安婦」問題と戦時下徴用工問題に関する韓国政府や韓国大法院の対応に対する報復措置であることは明らかであります。和解と平和の福音に立ち、その福音を宣べ伝える者として、わたしたちは、この度の日本政府の処置が明らかに誤りであり、これまで日韓両政府と市民が積み上げてきた信頼と平和の関係を切り崩すもの以外の何ものでもないことを訴えずにおれません。この度の問題の背景としてある日本政府の不満とするところは、徴用工問題など、請求権問題は1965年の日韓条約ですべて処理済みであるという見解から来ています。しかし、日本政府は、1956年の日ソ共同宣言をめぐって、1991年と翌年に国会質疑にて、樺太抑留日本人の問題が想定されていたと考えられる、当時の条約局長の答弁を通して、条約により国家間請求が放棄された後でさえ、国家等への個人の請求権は残存することを明言しています。にもかかわらず、そのような見解が日韓における徴用工問題などにおいては不問にされていることは明らかに矛盾であり、それゆえ日本政府のこの度の徴用工問題などに関する立場は欺瞞というほかありません。

 これらの問題の根源とは、歴史に向き合う姿勢の問題であると言えます。過去に国家が犯した過ちを隠蔽したり、歪曲することなく直視し、誠実に謝罪を表明し、その戦後責任として生存する被害者がたに可能な限りの癒しに向けた処遇を果たすことにより、ゆるしと和解と信頼の回復にたどり着こうとする良心的な対応が待たれているのです。わたしたちは、世界が見守る中で、日本政府がそのようにして韓国との信頼回復に努めるように方向転換することを強く望みます。韓国から求められていることの根本とはそのような誠実な謝罪なのです。わたしたちは、このような過程を捨象して誠実に応えることなく、日韓の平和を語ることはできません。

 誠実なる謝罪に求められるもうひとつの内実とは何でしょうか。それは、回数や時間の問題でも、金額のことでもありません。歴史的過誤の重大性を深く自覚する心であり、自分の自尊心よりもまず、傷つけられた側の人の痛みと苦しみへの共感に少しでも近づき寄り添おうとする良心の問題です。そして、その歴史を心に刻み、二度と同じ過ちで傷つけてはならない人間の尊厳の保全のために必要な記憶の継承を戦後責任としてあらゆる形の歴史教育の中に反映していくことです。その努力を通して、初めて誠実な謝罪は内実を伴い、韓国・朝鮮をはじめ世界の評価と信頼にたどり着くことができるのです。和解と平和は、この過程を経てこそ語ることができ、たどり着く道が開かれます。しかるに、この度、愛知県名古屋市で8月1日に開催された『愛知トリエンナーレ2019』での『表現の不自由展・その後』において、「平和の少女像」展示をめぐり、結果的に抗議と脅迫のメールなどの圧力、そして「平和の少女像」を見て「日本人の、国民の感情を傷つける」と言及した名古屋市長の中止申し入れが主催者に対してなされました。その後、その展示会が3日間で中止が決定されたことは、誠実な謝罪への期待を全く裏切る現実を露呈させ、韓国をはじめ世界を驚かせることになりました。同時に、この度の名古屋での「平和の少女像」展示をめぐる顛末を通して、日本国憲法第21条が保障する「表現の自由」という権利と、公権力による検閲の禁止が大きく棄損されてしまったことを憂慮せずにおれません。わたしたちは改めて、この日本において、人権としての「表現の自由」と、歴史認識の問題が深くつながり、しかもそれが日本において現在深刻な状況に置かれていることを知ることになりました。わたしたちはこの問題を不問にして平和の問題を語れないことを自覚しなければなりません。さらに、この旧日本軍「慰安婦」問題という歴史的人権問題は、ただ過去の問題ではなく、今や現代における広範にわたる女性への性暴力とハラスメントを隠蔽する社会と権力の構造を問い直す契機としての意義を持っていることを、わたしたちは自覚しなければなりません。

 わたしたちは、わたしたちの依って立つ主イエス・キリストの福音の信仰に従い、この日本において、また、日韓と日朝の関係をはじめとする北東アジアにおいて真実の平和を確立するために、日本国憲法第9条を守り抜く決意を新たにします。同時に、わたしたちは、東京電力福島原発事故の放射能被害と避難生活に今も苦しむ人々、また沖縄辺野古基地強制移設工事によって民意を踏みにじられ続ける沖縄県民の苦しみに思いを馳せなければなりません。それゆえにこそ、日本の将来における核兵器開発の道を許さず、また日米安保体制下で戦後一貫して従属させられて来た日本の軍事大国化への道を封じる最後の防波堤としての憲法9条の精神の重要性を、わたしたちは今こそ一層強く自覚しなければならないのです。

 日本国憲法第9条の精神とは、聖書的には、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ福音書5:44)の主イエスの福音に裏付けられる、心の武装解除であります。今、この日本は、止むことのないヘイトスピーチの問題を抱えています。憲法9条の精神は、人種差別と偏見により、民族的少数者らへの嫌悪と排除、そして攻撃を先導するヘイトスピーチに対しても、断固として否を突き付け、平和的共生を叫ぶ倫理的根拠をも支えます。今や日本社会は、在日外国人300万人時代を目前にしています。少子高齢化のただ中にある日本社会は今や、持続可能な社会となるために外国人を歓待する道を選ばなければならないのです。そのためには、技能実習生問題をはじめ、外国人労働者を単に安価な取り換え可能な労働力とみる差別的な今日の入管行政を改め、歓待されるべき移民であり、共に平和な共生社会を作り上げる隣人として迎え入れる考えとそのための実践が、日本の行政と社会のみならず、わたしたちキリスト教会の宣教の課題としても求められています。その意味において日本国憲法第9条の根本精神とは、外交上の指針であるのみならず、すべての民族に対し差別を許さない心の武装解除の倫理として和解と平和の共生社会の構想へとわたしたちを導く道しるべともいえるのです。

「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(ヨハネ福音書20:21)

 わたしたちは、この主の福音の命令を託されて、今新たに聖霊を主の息として吹きかけられて導かれ、自由と正義と平和を揺るがすこの時代の政治の嵐の中を、恐れずに主イエス・キリストの指し示すいのちと平和の向こう岸を目指しながら進み続けます。

2019年8月15日

日本キリスト教協議会 総幹事 金 性済
飯塚拓也(東アジアの和解と平和委員会委員長)
星出卓也(靖国問題委員会委員長)
北村恵子(女性委員会委員長)
小泉 嗣(部落差別問題委員会委員長)
李 明生(在日外国人の人権委員会委員長)
原田光雄(URM委員会委員長)

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