【映画評】 『聖なる泉の少女』 水の輪郭、少女の夢 2019年9月1日

〝闇が深淵の面にあり、神の霊が水面を動いていた〟(創世記1:2)

 清水の流れを、苔むす岩がふた手に割る。滝は滔々と川へ水を供しつづける。雪の降る朝、泉に棲む白魚のからだを少女は両掌で静かにそそぎ、老父は慣れた仕草で枝木へ細工を入れる。やがて夜闇があたりを襲う。熾された火の粉は吐息に吹かれ、泉の上空を渡り大樹に添えた松明へ着火して、闇なかの泉が照らされる。また朝が来る。村人たちは泉へ集い、横たわる病人の額へ少女が泉の水を数滴垂れる。病人の男は大きく目を見開いて起き上がり、黙したまま村人たちと泉を去る。

 教会の鐘とイスラームのアザーンが同時に響きわたる山あいの寒村を舞台に、こうしてジョージア(グルジア)映画『聖なる泉の少女』は一切の言葉なく場面を進める。開幕から十数分が過ぎたころ、ようやく老父が朴訥に語り出す。「案ずるな。いずれは慣れる。ずっと孤独だ」と。隣室の暗がりで、少女ナーメは寡黙に聞きつづける。

 村の日常に染みついた伝統習俗の逐一へ宿る、古(いにしえ)からの遠い呼び声。3人の息子はそれぞれジョージア正教司祭、イマーム(イスラーム聖職者)、無神論者の教師となって家を離れた。村から山ひとつを隔てた川岸では、水力発電所の建設工事が着手される。泉を守る一家の父は衰え、泉の水は枯れ始める。本作が象徴的に映し出すのは、人が自然との間に培ってきた交歓の姿であり、言い換えるなら人の精神世界がいまだ抱えもつ、ある種寓話的な古代性といっても良い。

 文明の変遷により意識の表層を幾度塗り替えられたとて、環境世界に由来する精神性の端源は、根深くしなやかに受け継がれゆく。その根深さは、正教司祭やイマームや共産革命の息吹残す無神論者でさえ、少女が持参した泉の聖水に宿る力を信じる素朴さによく顕れる。地域の特殊とグローバルな普遍という、ありふれた対立軸の虚偽がここでは顕わとなる。科学主義の上澄みだけ採る「普遍」への信仰こそが特殊で一面的であるという、人類学の存在論的転回に牽引される近年の思想潮流とも符合する、新しくも反動的な訴求力に本作は充ち満ちている。父に染みつく土着の精神と、息子らが体現する現代との狭間で、少女は静かに懊悩する。

 本作の白眉である、3人の息子によるしめやかな宴の場にふと生じる合唱のシークエンスには魂の震えを覚える。己の生との深い相剋を経て生き道と信条とを違えた3人が、父のもとへ参じてそのポリフォニックな合一を高らかに謳いあげるとき、父は黙して耳を傾け、娘は屋外の闇なかで誰にも知られず、手元の熾火から頭上の松明への魔術的点火を成し遂げる。この転回は父から娘への継承を土地の霊性が認めた顕れとなり、父子の集う家屋の輪郭が夜闇へ浮き上がる次の場面で、息子らを通じた多声的な祝福は倍音化され夜空へ放たれる。

 こうした本作の高度な抽象性も、監督ザザ・ハルヴァシが巨匠テンギズ・アブラゼのもとで学んだと知ればよく納得される。『祈り』三部作を始め、アブラゼがその抽象性を極度に高める所以となったソ連の検閲制度こそすでに過去のものではあれ、今日それとは別種の商業的ないし内面的「検閲」が映画製作の現場を襲うことは、同じくジョージア出身の巨匠イオセリアーニがフランス亡命以後の作品で再三主題化する通りである。

 また劇中における三兄弟のひとり、正教司祭となった男の名がギオルギであることは示唆的だ。その名の由来である殉教者聖ゲオルギウスは、この地で伝説化した竜騎士を指し、そのまま今日におけるジョージア(グルジア/ゲオルギイ)という国名の起源となった。こうした設定や台詞の端々から窺える愛郷心も師匠譲りと言えるだろう。

 もっともひと口にジョージアと言っても、そこには目もくらむほどに多様な民族・文化が入り乱れていることへの留意を忘れてはならない。アブハジアや南オセチアの紛争はいまだ火種を残しているし、独裁者スターリンやベリヤを生んだコーカサスの土地性と、ジョージア出身の映画監督たちはなお鋭く格闘し続けている。なお本作『聖なる泉の少女』の舞台となった黒海沿岸のトルコ国境域アチャラ地方もまた、他の辺境部同様に中央政府との確執の歴史を有し、今日はジョージア国内で自治共和国を形成する。

 さて映画の冒頭部で岩に割られた川の水面は、二分以上にわたる長回しで映されるうち緩やかな変化を起こす。滝壺の轟きがあたりを占めるなか、緩やかに白濁する流れが岩の下流側で再びひとつになる。魚を象る針金細工の数々に、娘はあり余る孤独の時を費やす。魚を漁(すなど)る者らの意味するところ。発電所の到来が予言するもの。ポスト・トゥルースの隘路に嵌まる21世紀の今日だからこそ、この反文明性、反時代性を含みもつ映像美への到達は貴重である。

 清らかな水を掬いあげ、傷ついた者を癒やす少女の指さきは解き放つ。人も自然も神さえもひとしく内包されるその泉で、少女はやがてすべてになる。(ライター 藤本徹)

 8月24日(土)より岩波ホールにてロードショー、全国順次公開。

公式サイト:https://namme-film.com/

©BAFIS and Tremora 2017

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