【宗教リテラシー向上委員会】 「転向」の後先 波勢邦生 2019年9月21日

 8月初旬、米国「福音派」を中心に、ジョシュア・ハリスの転向騒動が話題となった。「あらゆる意味でクリスチャンではない」と宣言した彼は、メガチャーチの元牧師。『聖書が教える~』と題して「恋愛」「結婚」を教えてひと稼ぎした人物である。

 一部メディアは「純潔文化のなれの果て」「キリスト教のグル、妻と信仰を捨てる!」とはやし立てた。面白おかしく取り上げる主要一般メディアに対し、小規模メディアは、穏当に論じている。例えば「First Things」は、多少辛辣ながら好意的に論じた。「The Federalist」は、同情的に取り扱い、有名牧師の「転向」表明を誠実なものと評価した。米国における「性的指向と信仰」に関する偏った前提を再考し、自省を求めた。

 日本における類似の事件として赤岩栄を思い出す。牧師でありながら「共産党」入党宣言を行った赤岩をめぐって、『基督教文化』(新教出版社、1949年)は特集を組み、赤岩の文章『私と共産党』に対する北森嘉蔵ら7人の賛否両論を26頁にわたり掲載。「キリスト新聞」も教界の反応を報じた。「牧師による共産党宣言」は一個人を越えた教会全体、社会全体に関わる問題だ、そういう共通認識だった。

 ジョシュア・ハリスの、赤岩栄の「転向」内実について論じることは措く。ただ「転向」が問題になる前提としての「人間理解」が気になっている。そもそも人生全体でみれば、思想・嗜好が変化することは当然である。カトリック教会に育ち、後にペンテコステ派に行く人もあろう。福音派で育ち、聖公会や正教会へと変わる人もある。信仰に無関心となる人、他宗教へと転じる人もある。果たして、それは「悪い」のか。

 変節や変化の意味を問うことは重い仕事だ。「太平洋戦争」「天皇」「日本」を問うた武田清子、丸山眞男、鶴見俊輔らの思想の科学研究会『共同研究「転向」』は、そんな仕事だった。無論、彼らの仕事もまた再検討されねばならない。

 赤岩栄とジョシュア・ハリス。彼らの内在的一貫性をたどるという仕事、他者と真摯に向き合うという重さ抜きに、彼らの「転向」を扱うことは難しい。なぜなら「転向」とは、誠実さの別名だからだ。

 では「誠実さ」とは何か。「転向」をめぐる騒ぎにおいて、誠実なのは誰だろう。信仰を棄てた者か。批判者か。両者を産み出してしまった社会的現実か。否。

 日々、ミクロにもマクロにも変化する人と世界に対して、変わらないのは神の態度だけだ。「終わりの日まで、人間の意思と行為に関して態度決定を留保する」点において、神は一貫して誠実である。しかし、究極的な責任者、神は現場では無責任である。

 もちろん「聖書と聖伝」という呼びかけがある。これらは人間の現実への神の介入であり、招きだ。しかし、それでもなお「生の現場」における判断は、人間各自に任されている。自由と尊厳を人々に与え続ける、その無責任さにおいて、神は誠実なのだ。

 そんな神の誠実に対して、人の誠実とは何か。それは、「誠実に変化する」ことである。その変化が周囲との軋轢と断絶を生むことはあるだろう。しかし、誰もが人生と世界という神の舞台に立てられて、そこで自由に踊っている。そして、このダンスの終幕のタイミングは神に任されている。自分勝手な一貫性ではなく、誠実に変化する。そんな「転向」の後先には、躍動が待っているかもしれない。

波勢邦生(「キリスト新聞」関西分室研究員)
 はせ・くにお 
1979年、岡山県生まれ。京都大学大学院文学研究科 キリスト教学専修在籍。研究テーマ「賀川豊彦の終末論」。趣味:ネ ット、宗教観察、読書。

『聖書が教える恋愛講座』著者、棄教を告白 2019年8月1日

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