【次世代牧師座談会】前編 神学の学びと教会の未来 いま、私たちに求められるものとは? 2019年11月1日

【参加者】 *( )内は出身校、写真左から

・日本聖公会東京聖テモテ教会牧師 太田信三(聖公会神学院)おおた・しんぞう 聖公会の家庭で生まれ育ち、洗礼、堅信礼を受ける。大学卒業後、働いた後に30歳で聖公会神学院に入学。

・日本基督教団聖ヶ丘教会牧師 藤井清邦(東京神学大学)ふじい・きよくに 銀座教会、長崎古町教会で牧会に従事。両親と祖父母がカトリック、妻の実家は福音派、祖母はペンテコステ派というエキュメニカルな環境で育つ。

・大井バプテスト教会牧師 広木 愛(西南学院大学)ひろき・あい 一度働いた後、イギリスの邦人教会で仕えたいとの志を持ち神学校に入学。現職に赴任して2年半。

・日本基督教団東中野教会牧師 浦上 充(関西学院大学)うらかみ・みちる 福井県・城之橋教会と併設する幼稚園に10年間従事し、今年4月に赴任。教団讃美歌委員。両親は元日本イエス・キリスト教団信徒、妻はカトリックの信徒。

・日本福音キリスト教会連合布佐キリスト教会牧師 児玉智継(東京基督神学校)こだま・ともつぐ 東京基督教大学(TCU)を卒業後、企業で働いてから神学校(現TCU大学院)に入学。今年9年目。

 2030年問題、教勢の低迷、会員の高齢化、牧師不足―さまざまな困難に直面する日本の教会。せっかく神学校を卒業しても、道半ばで伝道の最前線から撤退を強いられてしまう事例も少なくない。一方、神学や聖書を学んでみたいという信徒らの潜在的需要は大きい。次世代を担う30代の牧師たちは今、どんな課題に直面し、神学校での学びにどう支えられているのか。教会の未来を切り拓くために現場で奮闘する次世代牧師たちが、教派を超えて現代日本のキリスト教について縦横に語り合った。

変わりゆく時代の中で大事にすべきもの
知識だけで教会は建たない

学生時代に得たもの

――学生時代の思い出や学んだことについてお聞かせください。

児玉 東京基督教大学、東京基督神学校は全寮制でしたので、計7年間、相部屋の寮生活でした。男子寮に6年、最後の1年は栄光の脱出をして(笑)家族寮で過ごしましました。大学の卒論では「痛みの問題」について書きました。正直に言えば、失恋がきっかけでした。しかしそれが、「なぜこの世界に痛みや苦しみがあるのか」といった大きな問題に発展していきました。それは自分の信仰を揺るがす大きなテーマでした。

――研究の結果、結婚できた?

児玉 取り組んだ成果かどうかは分かりませんが(笑)、ずっと引きずってはいますね。でも、解決するような問題ではないんだろうと思います。とてもいい学びでした。というのも、教会員の皆さんも、きっといろいろな痛みを抱えながら教会に来られているからです。

太田 『俺の痛みの神学』ですね。リアリティがあってすごくいいと思います。

児玉 まさに実存的な問いでした。

浦上 関西学院大学は学生運動の時に「神学部だけの寮があるのはけしからん」ということで、寮はありませんでした。総合大学の中の神学部という形だったので、他学部の学生との接点も多く、それが特色の一つでもあるのかなと。学生時代は聖歌隊に属していたので、学内のチャペルを回りながら歌ったりしていました。神学書以外の図書もありましたし、世界が広かったですね。関学はメソジストのイメージがあったのですが、入学してみたら教派はみんなバラバラ。カトリックからペンテコステまで、一緒に礼拝をしたり、授業を受けるという体験はかなり衝撃的でしたね。チャペルアワーのために「このクラスで一緒に30分の礼拝を作ってください」と言われて、「どうする?」と。こっちでは異言を語る、こっちでは「祈祷書を作らないと」と(笑)。なんとか形にはしたけれど、みんながモヤモヤしている。キリスト教ってこんなに幅が広いんだというところから学生生活が始まり、そこから礼拝学や聖書学の基礎を学んでいくという組み立てだったのでダイナミックでした。反面、ギャップに耐えられず脱落する学生もいました。特に純福音系の学生にとって、学術的に聖書を読むというのは辛かったようです。

 私はフランシスコ・ザビエルの書簡の研究をしていたのですが、世界中のいろいろな動きなどを学会という場を通してつかむことができたのは大きかったですね。教会以外の神学的な学会や研究会に行ける窓口を開いてもらった点は、牧師になってからも役に立っています。

広木 西南学院も同じく総合大学の一つとしての神学部なので、神学生は寮に入るのですが、私は一般学生でしたので寮生ではありませんでした。神学部の中だけにいると、キリスト教色しかなくなっていくというか、一般の人たちは何を見て何を感じているのかとか、一緒にご飯を食べたりするだけでも全然違います。そういう意味でたくさん出会いがあったなと思います。

 私はいろいろあって神学部に5年いたのですが、先生とはぶつかりました(笑)。でも、今となってはそれがよかったかなと。牧会に出て思い出すのは、「1日5分でもいいからギリシャ語に触れなさい」という言葉とか、「バルトも読めないくせに牧師になろうと思うなよ」といった叱咤激励です(笑)。今でも辛いことがあったらすぐ「もう無理!」と連絡したり。そういう先生たちとの出会いは大きいですね。

 学士論文の研究で私がこだわったのはたった一つ「宿屋」。善きサマリア人に出てくる宿屋です。先行研究が少ないのでたいへんでした。ただ牧師になるつもりはなかったので、実践神学の授業はほぼ記憶になくて、それは今になって後悔しています(笑)。

藤井 私は初めて通った教会がカトリックで、両親、祖父母もカトリック信者でしたので、教会論とは、一教派に限ったものではなく、もっと全教会的なものだと思ってきました。キリストを愛するという点では一つなのに、なぜ教会の中はこんなに争っているんだと思うことがたびたびありました。日本基督教団だけが良ければいい、自分の教会だけが良ければいいというのではないと思います。

 イヴ・コンガールというドミニコ会の枢機卿の教会論と聖霊論について学んだことは、とても良かったと思っています。神学校卒業後にとても感じるのは、「知識は人を高ぶらせる」ということ。教会で、愛によって作り上げるということを置き去りにしてしまったら、知識だけで教会は建たないんだということを思わされました。人は熱心になればなるほど攻撃的になりますから(笑)。

 もちろん教派的な伝統、プロテスタント福音主義教会の信仰を大事にすることは言うまでもありませんが。

太田 聖公会神学院は寮生活でした。朝夕の礼拝を中心に、一緒に生活するということをとても大事にしています。当時は、3学年で全校生徒が3人でしたが、それはそれで非常に濃い時間でした(笑)。先生に言われたことで覚えているのは、「インデックスを作りなさい」と。そこで全部を獲得しようなんてしなくていい。こういうことがあった時、そこで立ち止まって、これについてはここだというところを後で見当がつけられるようにしておくことが大事だという教えが、今でも役に立っています。現場に出て怖いのは、信徒に対して何でも答えなければいけないと思い、嘘をついてしまうこと。もう一つ、神学校で大事だったと思うのは、私がいたころはチャプレンがいて、霊性形成ということが大切にされていました。週1回、「レクチオ・ディヴィナ」という時間があり、黙想をしながら聖書を読んでいくという時間なのですが、それはとても重要な経験でした。今自分が霊的にどういう状態かという面談も毎週ありました。その先生が「必ず現場に出たら霊的に渇く時が来る。その時にどうするかを、今のうちに身につけなければいけない」とおっしゃっていて、それが今も役に立っています。「今の時代、知識は片手で調べられる。それを身につけることがあなたの仕事ではない。神様との関係の中でどう自分自身があるかということを常に感じて、共同体の中に存在することがあなたの役目だ」とも教えられました。そのことはいまだに大事にしています。

牧師も信徒も必ず「渇く」

藤井 長崎にいた時、一番忙しいアドベントの時期に牧師たちで黙想会を開いていました。クリスマス前のあの怒涛の中で、講壇に立った時の虚しさってありますよね。クリスマスのチラシやポスターを作ったりするよりも、ただ静かに沈黙して祈る時間がものすごく大事だと思うんです。

 「プロテスタントは言葉で全部語り尽くせると思っている。そういうところにプロテスタントの間違いがある」というフレーズが渡辺善太先生の説教の中にあって、衝撃的でした。でも、確かに聖餐や洗礼が言葉で表せるなら、ぶどう酒もパンもいらないですよね。言葉でみ言葉を理解するという部分と、理解を超えてみ言葉が肉となって宿るという部分とがある。み言葉が語られて、聞かれるというところだけで終わってしまったら、半分しか働いていないというか、やっぱり信仰の部分に結び付けられていくってことが大事ですね。

――「霊的な渇き」を覚えるという体験はお持ちですか?

藤井 人間ですから、信徒か牧師かにかかわらず渇くはずです。そこでただ知識としての聖書だけではなく、デボーションや黙想が大事になると思いますね。中には牧師は渇かないんじゃないかと思っている人もいるのですが(笑)。

太田 それはありますよね。

浦上 妻がカトリック教会に所属していることもあって、よく晩の祈りに行っていました。幼稚園の建て替えもありましたので疲れていて、自分の教会は「職場」という感覚でした。そこで祈っていても仕事モードから切り替えられず、何かあると「園長先生」と呼ばれてしまうので、ここから離れなければと思い、近くにカトリック教会があったので、そこに行けば本当に一般の「求道者」、祝福をただいただける存在として居られる。妻の霊的なケアはカトリック教会で神父様とシスターにお願いできるという点も助かりました。妻に助けられて、自分の霊的なバランスも取れているかなと。

太田 常にそういう場所を自分の中で持っておくというのはすごく大事なことですね。私もいくつか、「何かあったらここに行こう」という修道院があります。あと、いまだに自分の状態を見てくれる同伴者のような存在がいるというのは大切ですよね。

浦上 同伴者って、友人になるんですか?

太田 利害関係のない人の方がいいですね。神学校時代の友人などもそうですが、他教派の友人とか。

――日本福音キリスト教会連合(JECA)では修道院とか無縁ですよね?

児玉 お聞きしながら、私自身に圧倒的に足りてない部分だなと思っていました。決して渇いていないわけではないのですが、ごまかしながらやっているかもしれないなというのが正直なところです。若手だからこそ任される仕事がいっぱいあって、そういう中で静まって落ち着いてというのはなかなか難しいですね。

――実際に渇かれたらどのように対処されているのですか?

児玉 今は本当に突っ走っている感じです。逆に止まったら倒れちゃうかもしれないですね。

――最近、福音派でも霊性の再評価がなされてきていますよね。

児玉 そうですね。でもやっぱり文化として慣れていなくて、私自身はどうやっていいか分からない。

*全文は紙面で。「後編」は11/21付に掲載。

【次世代牧師座談会】後編 神学の学びと教会の未来 教派問わず取り組むべき課題とは? 2019年11月21日

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