【宗教リテラシー向上委員会】 テクストと身体 波勢邦生 2019年11月11日

 趣味で参加しているイベントがある。「宗教間対話」の可能性を、毎回ゲストを迎えて探る「冥土喫茶ぴゅあらんど」だ。会場は、本連載執筆陣の池口龍法さんが住職をつとめる浄土宗龍岸寺(京都市下京区)。その入門的でありながらエッジの効いた内容にはファンも多い。これまでに仏教、ムスリム、ユダヤ教、社会学、少数民族など各方面で「近代社会と宗教」の接点を問いながら活躍する人々が登壇している。

 今回(11月4日)、曹洞宗僧侶の吉村昇洋さんをゲストに迎え、新刊『精進料理考』(春秋社)について話を聞いた。吉村さんはテレビ、ラジオの出演で多忙を極める臨床心理士でもある。「『精進料理考』を斬る!」と題されたトークショーは、浄土宗の池口さんが曹洞宗の吉村さんの実存に深く切り込み、各宗派の違いも際立つ興味深い内容だった。

 吉村さんは、池口さんに応じる中で、宗教活動の根拠として「テクスト」について語った。仏典をいかに読み、理解し、実践するのか。どのように原理を身体化するのか。彼は「精進料理」を手がかりに道元禅師以前の中国・インド仏教へとさかのぼり、自らの宗教的アイデンティティを確かめた。その研究成果を広く人々と共有しようとする吉村さんの姿勢は清廉そのものだった。

 翻って考える。聖書を読むとは、どういうことか。二十歳頃までは「読んだ通り、感じたまま」が書いてある内容だった。だから、有名な学者たちが「神学者」の専門家であることもよく分からなかった。例えば「カルヴァン研究の大家」と言われても、その意味がピンと来なかった。しかし、今は解釈を論じることでしか、テクストに触れられない場合があることを知っている。テクストが解釈を拒否するような事態もある。さらに、テクストの確定そのものが困難な場合もあるだろう。そもそも「聖書」とは何を意味するのか。

 「聖書を読む」には誠実さが必要だ。その要求は、無限に高い。無限である神の「ことば」と向き合うのだから、当然なのかもしれない。「神のことば」の内容を確定するためには、文献学的作業を徹底し、「読解」の方法論を検討しなくてはならない。神学のみならず、哲学、文学、史学の素養、翻訳理論、自然科学、社会科学の知見も援用せざるを得ない。

 多声的な写本群、確定し得ぬ本文。もはや存在しない原文をどうすれば把握できるのか。学術的極限にまで到達し、埋められるところはすべて仮組して埋めた上で、なお残る巨大な空洞。人知の及ばぬその闇に「神のことば」が、「聖書を読む」ことが潜み隠れている。

 しかし、その闇の淵でこそ「読む」ことが始まる。人類の共同性に助けられた「読解」から、個人の読みへ。「読んだ通り、感じたまま」の価値が、その闇の中で、光り始める。読み手の心身の状態によっては意味が変わることもある。聖書の一節を理解するのに20年かかることもあれば、一瞬で把握してしまうこともある。宗教文書には、究極的に、そういう性質がある。そして、個人的な読みが歴史を変えることもあった。個人の読みから始まる共同体の名こそ、「宗派・教派」ではなかったか。

 宗教への誠実さのゆえに、人類に与えられた全技術を用いて「テクストを読む」。吉村さんと池口さんの対話から、読むことへの手がかりを改めて感じた。

 テクストと身体、その連続性と非連続性、読むことの不可能性と可能性。ちょうど、聖書が目の前にある。

波勢邦生(「キリスト新聞」関西分室研究員)
 はせ・くにお 
1979年、岡山県生まれ。京都大学大学院文学研究科 キリスト教学専修在籍。研究テーマ「賀川豊彦の終末論」。趣味:ネ ット、宗教観察、読書。

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