【映画】 伝統料理フムスの兆しかもす未来 『テルアビブ・オン・ファイア』 サメフ・ゾアビ監督インタビュー 2019年12月13日

 メロドラマの撮影現場で働く冴えないパレスチナ人青年サラームが、脚本家のフリをするうちあとに引けなくなるコメディ映画『テルアビブ・オン・ファイア』がこの秋全国公開されている。アラブ伝統料理フムスが、主人公青年と検問所のイスラエル士官との断絶を橋渡しする光景がほほえましくも味覚を誘う本作は、イスラエル国内においても絶大な人気を集め多くの映画賞を獲得している。

 ナザレ近郊出身でパレスチナ人の自覚をもつサメフ・ゾアビ監督に、本紙「宗教リテラシー向上委員会」の連載をもつ山森みか氏(テルアビブ大学東アジア学科講師、イスラエル在住)が話を聞いた。それはコミカルながら宥和への熱望宿す映画の下地にアラブ系イスラエル人という、ユダヤからもパレスチナからも疎外される立場を生きる、監督の切実さが響くものとなった。

――本作の重要なシーンとして、教会における結婚式の場面が登場します。人々はそこでワインを飲んでもいますが、まず本作のキリスト教的な背景をお聞かせください。

 パレスチナの闘争は、最終的に国家や権利の問題に収束します。しかし近年この問題が過剰に宗教化されている。元々パレスチナ人の多くは世俗的で、パレスチナにはキリスト教徒もユダヤ教徒もいて一緒に住んでいたのに、イスラエル建国後から今日まで「パレスチナ問題とはイスラーム対ユダヤの宗教問題」だとする見方が広まってしまった。私が世界のどこへ行っても、パレスチナ人はムスリムだと皆が思い込んでいる。そのため、占領下で苦しむパレスチナ人にはキリスト教徒も多くいる状況を描くことは重要でした。ですからこの映画の中では、誰もヒジャブをかぶっていないのです。

 しかし一方で情勢が厳しくなる中、唯一の希望が宗教となりつつある現実もあります。私が言い続けたいのは、「パレスチナの闘争は続けられるべきである、けれど宗教化してはならない」ということです。

――私自身の生活実感から言えば、宗教化傾向はイスラエルのユダヤ人社会においても顕著です。劇中劇の台詞で「爆弾(プツァツァー)」を意味する言葉が、「爆発的」「爆弾娘」のように各所で形容詞的にいきいきと使われますね。終盤では手榴弾に擬したライターへ火がつけられる。映画で手榴弾は「リモン」と呼ばれていて、この言葉本来の意味は赤い果肉をもつザクロを指しますが、こうしたニュアンスの多重性と監督の先のご発言は関連しているのでしょうか。

 その通りです。最後のシーンで手榴弾型ライターでたばこに火をつけるとき、観客の多くはひょっとしたら爆発が起きるかもしれないと思ったはずです。言葉遊びに取り入れることで、「爆発」が今の私たちの国ではいつどの瞬間にも起こり得ることへの想起を意図しました。ザクロ=手榴弾のギミックをめぐって実はもっと長いシーンがあったのですが、結局カットになりました。もし将来本作がテレビシリーズになったら、脚本にこの場面を戻そうと思っています。

――映画では検問所のイスラエル士官アッシが、主人公サラームにアラブの伝統料理フムスを何度も持ってこさせ、とても美味しそうに食べます。しかし実はサラームにはフムスにトラウマがあり、終盤になって初めて食べる場面が登場します。この場面に込めた意図は何でしょうか。

 サラームは元来政治的には何もしたくないタイプの人間でした。彼は子供の頃に第一次インティファーダ(占領に対するパレスチナ人の蜂起、1987年)で精神的に傷ついた世代です。1993年のイスラエル政府とパレスチナ解放機構(PLO)によるオスロ合意時にはあった希望もその後消え失せ、サラームはすべてを諦めただ状況に適応し生きてきました。しかし映画の中で時間がたつにつれ彼は成長を始め、自分の意見をもち始めます。フムスを食べる場面には、自らの過去を克服し、未来を見る彼の変化を込めました。トラウマを忘れることではなく、今直面することで自分を成長させたのです。つまり今までの自分のように今後は生きていけないということを受け入れ、フムスを食べることで「次の段階」へ進んだのです。

――今お話にでたオスロ合意以前と以後の社会的な空気の違いが、本作では世代の隔たりとして表現されています。私自身、イスラエルでの世代間ギャップはとても大きいとも感じます。監督の出自でもあるアラブ系イスラエル人、つまりイスラエル国籍を有するアラブ人の目からみたこの世代間の相違をもう少し説明していただけますか。

 映画ではアラブの伝統料理フムスに託した「次の段階」へ、パレスチナ/イスラエルの若い世代はみな移行する必要があります。というのも現行の両政府にとっては、双方で現在の占領状態をコントロールしておりそこでビジネスが発生し経済が回るため、現状維持が最も都合が良いのです。アッバス・パレスチナ自治政府大統領やネタニヤフ・イスラエル首相の世代にとって重要なのは、「どのように占領を運営するか」であり「占領をどう解消するか」には向かっていない。私たちに必要なのはこれを変えることです。劇中劇に登場するマルワン(英雄視されている実在のパレスチナ人闘士)の世代は、占領からの解放を闘っていました。映画本編に登場するサラームの叔父の世代がそれに相当します。アラファトら60年代からオスロ合意まで戦士だった彼らもまた、要するに大きなそのゲームの一部であり、それも今となっては幻想だったことが明らかになっています。しかしなお過去の幻想を生きようとしている彼らの世代も、いまや退場を迫られています。 

 また外部にいる人間、外国と行き来している人たちも退場しなければならない。外から来た人間は、今の政府の中にもいる。たとえば現政局でキーマンとなっているリーベルマン(極右政党党首、連立政権下で2012年まで外相を務める)はロシアの出身です。彼らにとって内部にいる人間の声が押しつぶされることは都合が良いのです。でもパレスチナの内部にいる人間が主流になる必要があります。

――それは、パレスチナのその世代における大部分の人の意見なのでしょうか。ということはパレスチナ人はそのように世俗的な国家を望んでいるということですか。

 そうです。今年10月の総選挙でアラブ人政党は13議席を獲得し、クネセト(イスラエル立法府、日本の国会に相当)における第三党となりました。私自身はパレスチナとイスラエルという2つの国家が両立することはあり得ず、最終的には一つの国家という形でしかこの問題に決着はないと考えています。

――確かに前回の総選挙では、ボイコットの指令が出たためパレスチナ人の多くは選挙へ行きませんでしたね。

 そうです。でも今回彼らは投票に行って、イスラエルの国の一部となった。だからイスラエルも、もはや彼らのことを無視できなくなりました。イスラエル人は、パレスチナ人がいるということを認識しなければならなくなったのです。

――『テルアビブ・オン・ファイア』に話は戻りますが、主人公サラームは後半で、検問所のイスラエル士官アッシをドラマに出演させる選択をしますね。このことには、アッシを結果的にパレスチナサイドへ引き寄せたという含意があるのでしょうか。

 アッシがドラマに出演すること、それはもう彼が検問所の軍人ではない、つまりそこで自分の職を変えたことを意味しています。支配側であるイスラエル人は、パレスチナ人の動向を熟知しています。諜報部隊にはアラブ人の扮装をしている兵士もいるし、彼らはアラビア語を喋っている。だからイスラエル人は、パレスチナ人よりいつも一歩先を行けるのです。パレスチナ人はその逆で何も知りません。しかしサラームはようやくイスラエル人を理解し始め、これに打ち克つことを考え始める。これからの世代は、イスラエル人を取引可能な場所へ連れてくる必要がある。それが私の考えです。アッシが軍人のままでは、対等な取引などあり得ない。占領者と被占領者の関係、一方に銃があり一方には銃がない場所での和平継続はあり得ません。

――『パラダイス・ナウ』(2005年製作のパレスチナ人監督による自爆攻撃をめぐる名作。『テルアビブ・オン・ファイア』と同じくカイス・ネシフが主演)との関連を質問します。『パラダイス・ナウ』では、主人公がラストに攻撃か降伏しかない悲劇的な選択を迫られます。これと対照的に『テルアビブ・オン・ファイア』で描かれる状況は一層複雑で、『パラダイス・ナウ』のようにハッキリとした結末は描かれません。この違いに監督が込めた意味と、それに対するパレスチナでの反応についてお聞かせください。

 15年前に『パラダイス・ナウ』で自爆をしようとした彼が、そこで自爆をしなければ本作のサラームのようになっていたでしょう。意図していたわけではありませんが、そのような意味があるのかもしれません。15年前には、悲劇的ではあっても自爆攻撃で何かが変わり得るという希望がありました。今はもう、自爆などしても何も変わらないと皆が知っています。この間に現実が変わり、パレスチナ自治政府からは正義が失われ、単にイスラエル政府へ仕える存在となりました。この政治的な膠着状態のもとノンポリ化した世代を象徴するサラームが、映画のなかで成長し自分の力によって物事を変えよう、状況を克服しようとし始める。このこと自体は、パレスチナの若い世代の観客には伝わったと感じています。

――2018年秋の東京国際映画祭での来日時、監督は「軍事的な占領ではなく、精神的な占領について描きたかった」と発言しています(https://2018.tiff-jp.net/news/ja/?p=50394)。この「精神的な占領」について今後の見通しを聞かせてください。

 状況はよくありません。今イスラエル政府はパレスチナの教育制度への介入を試みています。ですから「精神的な占領」はより悪化し、子どもたちへも影響が及ぼうとしています。

――映画は「精神的な解放」を呼びかけるのに適したメディアとも言えますね。殊に監督の作品はそのような性格を強くもつと感じます。今後とも監督のご活躍を応援しつつ楽しみにしています。

 ありがとうございます。


 今回のインタビューは、全編ヘブライ語で行われた。映画宣伝を目的に来日したサメフ・ゾアビ監督をめぐる他の日本語メディア記事では、基本的に監督は自身の立ち位置を日本人向けに簡略化し語っている。本インタビューでは、聞き手の山森が四半世紀をイスラエルで暮らし、監督自身の通ったテルアビブ大学で教鞭を執るなど情勢に精通していることから、応答は勢い鋭く熱を帯びるものとなった。

 また『パラダイス・ナウ』以下の質問は筆者・藤本によるものだが、「精神的な占領」をめぐる監督の応答が、今夏反政府デモに街中が沸く香港で31歳の女性監督・陳小娟/オリバー・チャン・シゥクンへインタビューした際(「スタジオボイス」415号掲載 http://www.studiovoice.jp/order/ )に出たひと言と、まったく同一であったことに驚いた。現在の香港では、10代前半の子どもたちが義務教育化された北京語で日常会話する場面を目撃するようになり、広東語への誇りを失いつつある状況を彼女は大変恐れているという。パレスチナ/イスラエルというとどうしても遠いことのようにイメージもされてしまうが、したがってこの話は遠い出来事などでは決してない。

 飜って日本の現状へこれを置き換えてみたとき想起されるもの、連想されることがもし全く無いというのなら、その「無さ」をめぐる感性自体に何かの成果を読み取る必要さえあるだろう。巷では昨今、対韓国感情の悪化がよく言われる。日韓関係の悪化で利を得るのは誰なのかについて、ヘイトを撒き散らさずとも黙認する多くの日本人が考えることはなく、考えないことに対する批判が巷間やメディア上で交わされることもなく、それらは「空気」によりあらかじめ封じられる。映画にかぎらず文化芸術の全般において、日本人の表現は政治的な無垢性がしばしば言われる。人の生死が懸かる深刻な状況であればこそ笑い飛ばす表現が力を得る『テルアビブ・オン・ファイア』のような作品が、昨今の日本映画には潮流として存在しない。危機を危機と感覚できなければ対処への動機づけは働かない。立ち止まり考えること。考えるために知るべきを知ること。知るためにまず観ること。そこからしか何も始まらない。(聞き手 山森みか/構成 藤本徹)

新宿シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国順次公開中。

『テルアビブ・オン・ファイア』 “Tel Aviv Al HaEsh” “Tel Aviv on Fire”
公式サイト:http://www.at-e.co.jp/film/telavivonfire/
監督:サメフ・ゾアビ
出演:カイス・ナシェフ、ルブナ・アザバル、ヤニフ・ビトンほか

©Samsa Film TS Productions Lama Films Films From There Art?mis Productions C62382

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