【新春特別企画】 〝若造〟がネットを介して日本宣教を語ってみた デジタルネイティブ世代が素朴な思いを発信中 2020年1月11日

 誰もが発信できる時代に、ユーチューブやポッドキャストなどの動画・音声配信サービスを駆使して自身の悩みやアドバイスなどを発信する若手クリスチャンが増えている。今回はツイッターを介してつながった同じ30代の信徒と現役牧師によるツイキャスの配信(2019年12月23日)から、一部を抜粋して再録する。今どきの若者が考える日本宣教とは?

*ツイキャス(TwitCasting)=パソコン、スマートフォン、タブレットなどでライブ配信ができるサービスで、動画の配信、ラジオ(静止画と音声のみ)の配信などさまざまな配信が行える。使用しているSNSアカウント(ツイッター、フェイスブック、インスタグラム)でログインして使えるため、自身のタイムライン上で配信に関する投稿も行える。

出演者 ( )内はツイッターのID


いさ(@isa_ckt) こっそりクリスチャンYouTuber。4代目クリスチャンとして牧師家庭に育つ。11歳の時、キリストを救い主として個人的に信じる。神学校に入学するも1年で退学。性格は臆病で繊細。各地でオフ会を開くのが当面の目標。双極性障害。励ましになるツイートを目指してます。


まことさん@この世界の片隅の牧師(@plmakoto)
 30代ボードゲーム好き牧師。両親共にクリスチャン。10歳の時、きよめ派の教会で受洗。高校生のころ漠然と献身を志すも、大学卒業後は教員として働く。転居に伴ってバプテスト教会に移り、超教派の神学校へ。牧師をしながら働き方を模索中。自宅が教会。HSP(繊細さん)・詩的(私的)ツイートやや多め。

■「宣教」ってどうよ?

いさ 最初のテーマは、漠然としていますが「宣教について」。

まこと そもそも宣教って何かというところから話さないといけないと思うんですが、私の属する教派では牧師が礼拝で語る説教を含め、教会の働きすべてを「宣教」と捉えています。

いさ なるほど。では、「教会の働きとは」という問いと言ってもいいですね。

まこと いさ君にとっての「教会の働き」とは?

いさ やっぱり伝道ですね。クリスチャンではない人にイエス・キリストの福音を宣べ伝えるというのが教会のコアにあるのではないかと思います。

まこと 伝道って具体的にはどんなことを?

いさ 世代や性別によって分けられたグループごとに月1回、それぞれ個人伝道の進捗状況を報告し合うという機会を設けています。誰にいつ会って、どんな話をして相手の反応はどうだったかという話をして、お互いに励まし合っています。それが僕にとっての宣教のイメージですね。1年ほど神学校で宣教について勉強したことがあって、そこで宣教のイメージが変わりました。必ずしも伝道だけではないと。例えばこの世界の環境問題や隣人愛の実践に携わることも宣教なんだと。必ずしも既存の教会活動だけではないと。宣教に対する広い視野を持ちたいと。

まこと 私もかつては大学のキャンパス内で、宣教師の先生と出会った人に声をかけるという路傍伝道をしたことがあって、直接ストレートに聖書の言葉を伝えるという方法を使ったことがありました。でも今は、あまりそういう形での伝道はしていません。

■バトンを受け継ぐ

いさ 今はどんなスタイルの伝道を考えていますか?

まこと 一教会の牧師として礼拝でメッセージを語るという働きを託されているので、それが働きの中心ではあります。あとは、今住んでいるこの地域での関係性を築いている段階です。まずは教会員をはじめ、みなさんの話を聞きたいし、この地域にどんな課題があるのか、どんな苦しみがあるのかということを知っていく段階です。

いさ 福音派では一時期、誰かに愛をもって優しく接するというよりも、「とにかく伝道が最優先」という雰囲気があり、「その人の気持ちに寄り添うというような悠長なことを言っている場合ではない。人と会っているのに福音を伝えないでいいのか」という強迫観念が未だにある気がします。

まこと それって究極的には、死を前にしたノンクリスチャンに対して何を語るかという問いでもあると思います。

いさ どうあるべきなのか、まだ分かりませんね。

まこと この人には自分が伝えるしかないというのは、おこがましいかもしれませんね。私も今までの先生が持っていたバトン、この教会がつないできたバトンを受け取れるならば受け取りたいと思います。もちろん、違う人間なので同じようにはできないのですが。

いさ 世界の教会の流れでもバトンのようなものを感じていて、一昔前のムーブメントの次に新しいバトンをもらっていて、それをまだつかみ切れていない。それをうまく継承して、次の時代にも残していけるようなものを生み出したいと思うことはあります。

まこと そういう意味で、宣教というのはただ伝えるだけではなく、世界の問題に取り組んでいくことも含まれるという考え方は歴史の中で生まれてきたものであって、歴代の信仰宣言なんかもバトンの一つかもしれませんね。そこで示された大きな方向性の中で個々人が何をするか。例えば「隣人を愛する」と言っても、具体的に何をどうするのかと。聖書の神様がどういう方なのか、世界をどう見ているのかということを問い続けていく中で見えてくるものだと思います。だから、答えは分からないんですよ。

いさ 確かにそうですね。

■これからの教会に必要な「戦略」?

いさ では、これからの日本で具体的に何をしていったらいいか。これも漠然としていますが。

まこと 自分たちみたいな若造がどの口で、と(笑)。

いさ 若造だからこそ語らないといけませんよ(笑)。

まこと そうですね。教会として何ができるかという以前に、かつてのように教会につながって教会を支える世代が減っていく中で、どう教会を存続できるかという危機の問題が大きい。(牧師という)教会から支えられている立場として、経済的にもかなり厳しいとひしひしと感じています。

いさ そうした危機に対する策は出てくるものですか?

まこと すぐには出てこないと思いますが、今の課題として考えているのは、地域における教会の存在意義ですね。この地域の福音宣教にとって教会が必要だと自分たちで主張することはもちろんできますが、そもそも地域に必要とされているのかという問いです。

いさ 経済学者のP・ドラッカーが「自分たちが何を売りたいかではなく、顧客が何を求めているかがすべて」と指摘しているマネジメントの話にも通じますね。

まこと もちろん、相手のニーズに寄り添うために自分たちの大切なものを曲げてしまうのは違うと思うんですが、これまでの宣教スタイルは「みなさんにはこれが必要なんです」というどこか「上から目線」だったんじゃないかという反省があります。相手が必要としていることを聞く前に、メッセージありき。以前、赴任していた教会に通い続けてくれた若者が、ある時こんな話をしてくれて「自分が教会に来続けているのは、助けてほしいから。でも来ると出てくるのはイエス様。応急処置として傷の手当てをしてほしくて来たのに、集中治療室に連れていかれたような気持ち」と表現してくれたんです。それに衝撃を受けて。救いを求めてくる人の「救い」が、一足飛びにイエス・キリストには行かない。もちろん究極的には、そこに結びついてほしいんだけど、いきなり過ぎたのかなと。要はその人の現実とつながっていない。その辺が地域での教会の存在意義と関係している気がしていて、「救いが必要なんです」と言われても、必要とされている救いは、人間関係とかいじめとかDVからの救いであって、教会の伝える救いとはつながらない。この地域や教会が必要としている具体的な救いとは何か、そこにイエス・キリストはどう生まれてくださったのかを模索しているところです。宣教とか伝道って、聖書をどう読むかとか、神様をどう捉えるかということと表裏一体だと思います。

いさ 僕の中では宣教を考えるという場合、これまでのやり方がうまくなかったという教訓から、これからの時代に通用する何らかの戦略を持ち込みたくなるんですが、そもそも論から考えるという想定と違う展開で面白いなと。

まこと 私も戦略は必要だと思っていて、そのために一市民として地域のコミュニティに出ていっているんです。特にこの地域は障がい者への取り組みを推進している特徴があるので、自分もさまざまな形で参加させてもらっています。それはある意味、戦略的でもある。

いさ なるほど。それがまことさんなりの戦略なんですね。僕のイメージしていた戦略とはだいぶ違いますが、どういうゴールを目指しているのかなと興味はあります。

■「外」にある牧草を食べに

まこと 私はあまり教会の「内」と「外」という分け方をしたくなくて、いま漠然と思い描いている夢は教会に地域の人がもっと出入りすること。そして、教会は聖書を大切に読み、キリスト教の教えに基づいて活動はするけれども、地域の働きで賛同できるものは加わっていくし、むしろ教会でこそ地域の活動をしてほしい。教会は微力ながら地域のサポーターになりたいし、教会が何かをする時には地域の方から「お手伝いしますよ」と言ってもらえるぐらいになりたい。その中で、聖書の言葉は語っていきたいし、そこに大切なメッセージがあるということは伝えるんですが、一緒に取り組む中で「ここに救い主がいたんですね」と教会の内外で発見していくような宣教のあり方ができないかなと思っています。

いさ 僕もそれまで、神は教会やクリスチャンの中でしか働かれないと思っていたのですが、「あそこにも救い主がいた」という感覚を覚えたことがあって、今までの仕切りが取り除かれたという瞬間を思い出しました。

まこと 今までの伝道や戦略って「日曜日の午前中に来てください」だったわけですが、今日ではなかなか厳しい。むしろ出ていった先に自分たちも養われる牧草がある。自分たちが囲いの内側にある餌を独り占めして、「こんなにおいしい牧草があるから食べに来なよ」と他の羊を連れてくるんじゃなくて、出ていった先の牧草地で「この草おいしいね」と一緒に食べたり、あの羊飼いについていったらおいしい牧草地に行けるんだぜ、みたいな。

いさ いままでは教会の中で、教会の人たちへの愛を実践していくという狭い世界でしたが、外に出ていって与えられた愛を分かち合っていく。出ていくことで見える景色も変わっていくと。

まこと 自分たちに与えられているものの価値を知るためにも外に出ていく。クリスチャン人口が少ない中ではアウェイかもしれませんが、社会でも広がりつつある弱者に手を差し伸べる考え方とかって元をたどれば聖書が大事に語っていること。必ずしも教会の外がアウェイだとは思わない。恥ずかしながら教会の中にも差別や抑圧があったり、逆に教会の方がアウェイかもしれない。

いさ 「分かち合う」というのがこれからのテーマになると思いました。今日の話で見えなかったものも見えたので、これからも続けてツイキャスできればと願っています。ありがとうございました。

まこと こちらこそありがとうございました。

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