【夕暮れに、なお光あり】 空気を読まない生き方 小島誠志 2020年2月11日

 わが国は、ファシズムの戦前から、敗戦を契機にして戦後は急激に民主主義に転じたという。それから七十有余年、その民主主義は果たして日本に定着しただろうか。ファシズムに抗しての民主主義とは少数者の声が聞かれることだと思う。ファシズムの下で踏みにじられてきた少数者の声、叫び。

 日本において民主主義はそういうふうには受け取られてこなかったと思う。むしろ民主主義は多くの人間の声が作用する社会だと受け取られてきたように見える。

 「多数決」である。最大多数の最大幸福というわけである。その原理が蔓延した結果、少数者の声は聞かれなくなった。KYという言葉が十数年の間にすっかり日本社会に定着してしまった。「空気が読めない」という言葉の略だという。会社であれ地域であれ学校であれ、その場の雰囲気を理解できずに行動したり発言したりする人間を批判する主旨で用いられている言葉である。

 よく考えてみればこれは日本社会に、戦前どころか1千年以上いや2千年来、脈々と生き続けてきた村八分の思想そのものではないか。

 長期安定政権を支えてきた原理もこのあたりにあると思う。

 福音書の中に、悪霊につかれた男がキリストに出会った時のことが記されている。キリストに出会った時、男の中の悪霊が叫ぶのである。自分たちを追放するなら、あそこにいる2千匹の豚の中へ追放してくれ、と。キリストが2千匹の豚の中へ悪霊を追放する。すると2千匹の豚は一勢に駆け出し、岸壁から湖の中に飛び込み溺死した、と記されている。

 悪霊の正体が描かれている。悪霊は群れになるのである。群れになって疾走する。そして一緒に壊滅する。

 悪霊につかれるとは、群れて生きるということである。自分の分別判断ができないで、人々の動向に従うのである。

 人間が滅びるのは一緒に走って一緒に滅びる。悪霊を追い出してもらった男は「服を着、正気になってイエスの足元に座って」いた(ルカ8:35)と記されている。救い主に向き合うひとりの人間になって、人は初めて「正気」なのだ、ということを忘れてはならない。

 年をとれば、自分の生きてきた経験がいかにかけがえのないものかが分かる。その経験に培われてきたゆずれない判断、主張というものがある。ズルズルと時代に流されるだけの高齢者になるのはやめよう。あえてKYであろうとすることが、キリスト者であることなのかもしれない。

 おじま・せいし 1940年、京都生まれ。58年、日本基督教団須崎教会で受洗。東京神学大学大学院卒業。高松教会、一宮教会を経て81年から松山番町教会牧師。96年から2002年まで、日本基督教団総会議長を3期6年務める。総会議長として「伝道の使命に全力を尽くす」「青年伝道に力を尽くす」などの伝道議決をした。議長引退後は、仲間と共に「日本伝道会」を立ち上げて伝道に取り組む。現在、愛媛県の日本基督教団久万教会牧師。著書に『わかりやすい教理』『牧師室の窓から』『祈りの小径』『55歳からのキリスト教入門』(日本キリスト教団出版局)、『夜明けの光』(新教出版社)、『夜も昼のように』『わたしを求めて生きよ』『朝の道しるべ』『虹の約束』(教文館)など多数。

連載一覧ページへ

連載の最新記事一覧

TO TOP