新型コロナウイルス感染拡大 教皇、25日に全世界で「主の祈り」を呼び掛け 2020年3月24日

 教皇フランシスコは、3月22日の「お告げの祈り」(アンジェラスの祈り)で、新型コロナウイルスの世界的な感染拡大に対応するため、25日正午に、全世界のキリスト者が一斉に「主の祈り」をささげるよう呼び掛けた。さらに27日午後6時には、通常は復活祭とクリスマスの年2回しか行わない使徒的祝福「ウルビ・エト・オルビ」(ローマと世全界へ)を伴った祈りを導くという。「バチカン・ニュース」が伝えた。呼びかけの全文は以下の通り。


教皇フランシスコ、2020年3月22日「お告げの祈り」でのことばと、新型コロナウイルスの感染拡大にあたっての呼びかけ

兄弟姉妹の皆さん、

 パンデミックの脅威に全人類が動揺しているこの試練の日々に、わたしはすべてのキリスト者の皆さんに、天に向かって声を合わせるよう提案したいと思います。すべての教会指導者とすべてのキリスト教共同体の指導者、そしてさまざまな教派のすべてのキリスト者の皆さんに呼びかけます。わたしたちの主イエスが教えてくださった祈りを、いと高き全能の神に向かって一斉に唱えましょう。ついては、一日に何度も祈るようにお願いしたいのですが、この水曜日、3月25日の正午(日本時間午後8時)には、全世界で一斉に「主の祈り」を唱えましょう。おとめマリアへのみことばの受肉の告知を多くのキリスト者が記念するこの日に、主が、復活されたキリストの勝利を祝う準備をしているすべての弟子の一致した祈りを聞き入れてくださいますように。
 
 次の金曜日、3月27日の18時(日本時間28日午前2時)には、同じ意向のために、聖ペトロ大聖堂の前庭で、無人の広場を前に、祈りの時を主宰します。コミュニケーション・メディアを通して、この時刻から霊的に参加するようお願いしたいと思います。わたしたちは神のことばを聞き、祈りをささげ、聖体礼拝を行います。その後、わたしは「ローマと全世界へ(ウルビ・エト・オルビ)」の祝福を送ります。その祝福によって、全免償(注)を受ける可能性が付与されます。

 新型コロナウイルスのパンデミックに対して、全世界の祈りと思いやり、優しさで対抗していきましょう。一致を保ちましょう。独りぼっちで試練に立ち向かっている人々が、わたしたちがともにいることを感じられるようにしましょう。わたしたちは、医師や医療従事者、看護師、ボランティアの皆さんに寄り添います。わたしたちのためとはいえ、厳しい措置を講じなければならない関係当局と、わたしたちはともにいます。わたしたち皆のために政府が求めていることが遂行されるよう、路上で秩序の維持に努めている警察官や兵士の皆さんに寄り添います。わたしたちはすべての人とともにいます。

(注)「ウルビ・エト・オルビ」の祝福に際して与えられる全免償は、テレビやインターネット、ラジオを通して、祝福にあずかり、自分の罪を悔いて、定められた祈り(「使徒信条」「主の祈り」「アヴェ・マリアの祈り」)を唱え、できるだけ早く「ゆるしの秘跡」を受け、聖体拝領することを約束することによって受けられます。免償とは、すでにゆるされた罪にともなう有限な罰のゆるしです。成聖の恩恵の状態にあり、定められた条件を満たす者に、教会は免償を与えます。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、こんにちは。

 四旬節第四主日の典礼の中心的なテーマは「光」です。福音朗読(ヨハネ9・1-41)には、生まれつき目の見えない人の目をイエスが見えるようにした出来事が記されています。この奇跡のしるしは、「わたしは世の光である」(5節)、闇を照らす光である、というイエスのことばを確認するものです。イエスはまさに光です。イエスは二つの側面を照らしてくださいます。身体的な側面と霊的な側面です。目の見えない人は最初に視力を取り戻し、それから「人の子」(35節)を、すなわちイエスを信じるようになります。そのすべてがひとつの旅です。今日、ヨハネによる福音書9章を手に取り、この箇所を読んでください。とてもためになりますし、一度か二度、読み返すといっそうためになるでしょう。イエスが行う奇跡は、決して派手なものではありませんが、内的な変化を通して、信仰へと導くことを目指しています。

 その場にいた一部の律法学者たちは、この奇跡を頑なに信じようとせず、目が見えるようになった人に狡猾な質問をします。しかし、その人は真実の力によって彼らをやり込めます。「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」(25節)。自分を取り囲み、疑い深く問いつめる人々の不信感と敵意のただ中で、彼は自分の目を開いてくださったかたが、どんなかたであるかを知り、そのかたへの信仰を告白するよう導く道を徐々にたどっていきます。最初は「預言者」(17節)であると思い、その後、神のもとから来られたかた(33節)であると考えるようになります。最後には、救い主としてイエスを受け入れ、イエスの前にひれ伏します(36-38節)。そして、視力を与えることによって、イエスは「神のわざ」(3節)をお示しになったことを知るのです。

 わたしたちもこのような体験ができますように。目の見えなかった人は、信仰の光によって、新しい自分自身を見いだします。彼は今や、新しい光に照らして自分の人生や周りの世界を見ることのできる「新しい被造物」となりました。キリストとの交わりに加わり、他の領域に足を踏み入れたのです。彼はもはや、社会の片隅に追いやられた物乞いではありません。もはや、目の見えないことと先入観に捕らわれることはありません。彼の光への道は、わたしたちが招かれている、罪からの解放への道の象徴です。罪は、わたしたちの顔を覆う暗い色のベールのようです。それは、わたしたちが自分自身と世界をはっきりと見る妨げとなっています。主のゆるしは、この影と闇のベールをはぎ取り、新しい光をもたらします。わたしたちが今、迎えている四旬節は、母である教会によって示されるさまざまな方法によって、主にいつくしみを願い求めながら、主に近づくのにふさわしい大切な季節です。

 身体的な目でも、霊的な目でも見られるようになった、このいやされた人は、洗礼を受けたすべての人の象徴です。洗礼を受けた人は、主の恵みに浸され、暗闇から引き出され、信仰の光のもとに置かれます。しかし光を受けるだけでは十分ではありません。自分も光にならなければなりません。わたしたちのだれもが、光を受け、その光を生涯、外に発し続けるよう招かれています。初期キリスト教共同体の神学者のことばによれば、キリスト教共同体、教会は、月の神秘です。光を投げかけますが、それは自分の光ではなく、キリストから受けた光を反射しているのです。わたしたちも、太陽から、つまり主キリストから受けた光を反射する「月の神秘」となることができます。聖パウロが記している通りです。「光の子として歩みなさい。光の結ぶ実は、あらゆる善と義と真理との内にあるからです」(エフェソ5・8-9)。洗礼によってまかれた新しいいのちの種は、まずわたしたちを清め、心の中の悪を焼き払い、それからイエスの光によってわたしたちを明くし、輝かせる炎の口火のようです。

 わたしたちがこの福音の中の目の見えない人に倣い、キリストの光に満たされ、キリストとともに、救いの道に踏み出すことができるよう、至聖なるマリアが助けてくださいますように。

写真=山名敏郎

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