【ヘブル語と詩の味わい②】 わがたましいよ 主をほめたたえよ 津村俊夫(『新改訳2017』翻訳編集委員長・聖書神学舎教師) 2020年5月1日

「わがたましいよ 主をほめたたえよ」(詩篇103:1a、新改訳2017)

 ここで詩人は、自らの「たましい」に向けて命じる。「主をほめたたえよ」、と。このような「内なるダイヤローグ(対話)」は聖書独特のものであり、主権者である「生ける神」に向かう信仰者の「たましいの息づかい」が表明されている。ここで「たましい」と訳されているヘブル語はネフェシュ(נפש)という語で、日本語で「魂」と漢字表記するだけではその語の意味する所を表現しきれない。「わがたましい」とは「私自身」とか「私の存在そのもの」を意味する表現である(新改訳2017は敢えて平仮名で「たましい」と表記している)。

 さらに、「(ほめ)たたえる」と訳されているヘブル語べーレク (ברך)もキーワードの一つである。しばしば「祝福する」と訳される語であるが、日本語では、人が神を「祝福する」とは言えない。この語は英語では “bless” と訳されることがあるが、それは英語の “to bless” が日本語の「祝福する」よりも広い意味範囲を持つ語だからである。最近の英訳では “to praise” と訳すものもある。「ほめたたえる」という訳も、単に人が人を「称賛する」と言うのとは違い、人が神を「たたえる」という文脈で用いられることばである。

【インクルージオ(囲い込み)とキアスムス(交錯配列法)】

 さて、103篇のように、はじめと終わりが同じ詩行でインクルージオになっている詩篇は他にもある。8篇がそうである。

「a 主よ 私たちの主よ
 b あなたの御名は全地にわたり
 c なんと力に満ちていることでしょう。」(新改訳2017)                                           

 この一文は、1節の冒頭abcと9節に用いられている。103篇とは異なり、繰り返されているのは三つの短い詩行である。協会共同訳は

「主よ、我らの主よ
 御名は全地でいかに力強いことか」(聖書協会共同訳)

と2行に訳しているが、並行関係にある詩行の理解に違いがある。

 インクルージオは始めと終わりで繰り返される表現がまったく同じである必要はない。詩篇においても表現のバリエーションを伴っている場合が多い。例えば、46篇の場合、1節aの

「神は われらの避け所 また力。」 は、7節bと11節bの

「ヤコブの神はわれらの砦である。」に対応していて、46篇全体の始まりとして11節bに対応し、同時に1~7節という第1段落の始まりとして7節bに対応している。

これをへブル語の語順に即して訳すと次のようになる。

 神は (a) われらの (b) 避け所 また力 (C)

 である (c’) われらの (b) ヤコブの神は (A)                             

実は、遠く離れたこの2行には

 a-b-C //
  𝖷
 c’-b’-A’

のような、a-A’ と C-c’ が「交差した」(キアスティック:ギリシア文字のキー =χ=に基づく表現)対応関係が見られる(大文字の “C” と “A’”はそれらに対応する語 “c’”と、語“a” より長い表現=句、すなわち「バラスト・バリアント」=安定変形=になっている)。このように、並行関係を持つ二行の要素間の対応が、 a-C // c’-A’ のように交差している場合、それを「キアスムス」(chiasmus)と言う。さらにこのような対応関係を ABBAパターンとして一般化して扱うこともある。

 また、はじめと終わりが対応していると言っても、それは詩行である必要はない。同じ語や似た語が繰り返されている場合も、その詩のはじめと終わりがインクルージオになっていると言うことができる。例えば、23篇の場合、1節に出てくる「主」(יהוה ヤハウェ。母音記号はアドナイ)は6節c(「主の家」)にも繰り返されている。このようなインクルージオも意図的で、「主」がテーマであるこの詩篇全体のまとまりをさりげなく表現していると言える。

 つむら・としお 1944年兵庫県生まれ。一橋大学卒業、アズベリー神学校、ブランダイス大学大学院で学ぶ。文学 博士(Ph.D.)ハーバード大学、英国ティンデル研究所の研究員,筑波大学助教授を経て、聖書神学舎教師。ウガリト語、 旧約聖書学専攻。聖書宣教会理事、聖書考古学資料館理事長。著書に『創造と洪水』『第一、第二サムエル記注解』など。

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