「オンライン礼拝」をどう考える? 〝教会のコロナ捕囚〟 芳賀 力(東京神学大学学長) 2020年5月11日

 5月の連休までを目途に発令された「緊急事態宣言」は、全国的に5月末まで延長されることとなり、いよいよ長期戦の様相を呈している。教会も相次いでオンラインによる礼拝の配信に乗り出した。すでにコロナ禍以前からネットを介しての情報発信に力を注いできた教会も少なくないが、会堂に集まる対面での礼拝を中止せざるを得ない状況が、この動きに拍車をかけた。画面越しに「参加」する礼拝をどう受け止めるべきか、教会でもさまざまな意見が交わされている。東京神学大学学長の芳賀力氏の見解を紹介する。

集まることなしに存在しない教会
〝今は耐え、待ち望むべき時〟

 新型コロナウイルス感染の勢いが止まらない。つい未曽有の出来事のように思いがちだが、人類は何度もこうした危機に見舞われてきた。1918年から1920年までの約2年間、スペイン風邪に、当時の世界人口の3割に当たる5億人が感染し、2000万~4500万人が死亡したと伝えられている。日本でも約45万人が死亡したとされる。パンデミック(世界大の伝染病)と言えば、天然痘もそうだが、何と言っても人類の歴史をしばしば襲った黒死病(ペスト)が挙げられるだろう。

 14世紀の黒死病の蔓延によりヨーロッパの人口は4分の1に激減したとも言われる。カール・バルトがよく言及するフランス・コルマールにあるグリューネヴァルトの「イーゼンハイムの祭壇画」には、黒死病に苦しむキリストの姿が描かれている。

 17世紀のペスト流行の際、『ロビンソン・クルーソー』の作者ダニエル・デフォーはこんな記録を残している。「(皆が熱心に教会へやってきて)自分たちがめざす聖なるつとめにくらべれば、生命なんかたいしたことはない、とでも言わんばかりにひしめいていたのです。じつにこんな時にでも出かけてくるその熱心なさまや、説教に耳を傾ける時の心をうちこんだ真剣なさまにふれてみると、つぎのようなことがはっきりわかりました。つまり、教会に来るたびごとにこれで最後だと思うと、神の礼拝をみんながどんなに大切にするか、ということです」(村上陽一郎『ペスト大流行』岩波新書より)。このくだりは当時の礼拝の様子を伝えていて、いろいろ考えさせられる。

 現在多くの教会では、礼拝に人が集まることを避け、インターネットでの動画配信によって礼拝が続けられている。私たちはまず、このようなメディアが与えられていることに感謝すべきだろう。その上で、しばしば訊かれることなので、私たちが心に留めるべきことを整理しておきたい。

 まず、ウイルス感染の問題は、自分のみならず他人の命にかかわる事柄なので、教会も医学的見地に従うべきである。旧約続編シラ書38章にあるように、医者を造り、用いておられるのは神である。

 集会を中止し、動画配信で礼拝を各自が自宅で守ることは、主権国家のナショナリズムによる信教の自由の侵害とは異なる。どのような手段であれ、礼拝を捧げることが禁じられているのではない。

 この礼拝のあり方は、見えざる教会の持つヴァーチャル・コミュニティ(目に見えない、しかし現にある共同体)としてのつながりを実感させる機会でもある。私たちは一つにして聖なる公同の使徒的教会の一員なのである。

 ただしこれが「非常時」であることを決して忘れてはならない。これが当たり前だと思ってはならないし、これに慣れてはならない。礼拝は神の招集に応じることである。神は安息日に、仕事の手を休め、人間が自らの悪しき業を止め、神に礼拝を捧げることを求めておられる。「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」(マタイ18:20)

 新約聖書が教会を特徴づける際に用いるのは、「同じ場所に(エピ・ト・アウトー)」集まるという定型句である(使徒言行録1:15、2:1、2:44、2:47、 Iコリント11:20、14:23、またイグナティオスのフィラデルフィアの信徒への手紙10:1、バルナバの手紙4:10)。同じ場所に集まることなしには、見える教会は存在しない。人々がみ言葉を聴くために集まり、パンとぶどう酒を分かち合うところ、そこに見える教会がある(E・シュヴァイツァー『新約聖書における教会』新教出版社)。そして、この見える教会を通して罪の赦しの福音が伝達される。見えざる教会は見える教会を離れて抽象的に存在するのではない。

 その意味で残念ながら今は「教会のコロナ捕囚」の時である。だから今は耐える時である。やがて必ず捕囚の時は終わる。たとえディアスポラ(離散の民)の状況に置かれようとも、神がご自分の民を見捨てることは決してない。「主に贖われた人々はそのように唱えよ。主は、彼らを苦しめる者の手から贖い、国々の中から集めてくださった。東から西から、北から南から」(詩編107:2~3、マタイ8:11)。だから私たちは、捕囚から解かれた後に、あのエズラ、ネヘミヤに訪れた礼拝の喜びが来ることを確信して、それをじっと待ち望むべきなのである。総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、民の前で律法を朗読した後、こう述べた。

 「今日はあなたがたの神、主の聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない」。律法の言葉を聞き、感極まって泣いていた民に、彼らは重ねて言った。「行ってごちそうを食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分けてあげなさい。今日は、我らの主の聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜びとすることこそ、あなたたちの力であるからだ」(主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である=新共同訳、ネヘミヤ8:9~12)

(はが・つとむ)

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