【宗教リテラシー向上委員会】 コロナ禍で突き付けられたお寺の現実 池口龍法 2020年6月1日

 教会では日曜礼拝に信者さんが集うが、お寺の場合、お坊さんが逆に檀家さんの仏壇を拝みに行く。これを月参りと言い、関西では広く行われている。檀家さんの家を毎月決まった日(たいてい直近で亡くなったご先祖の月命日)に訪ね、10分から15分程度の読経をする。それが終われば、お茶とお菓子をいただきながら世間話をする。他愛もない時間だが、ご自宅にお邪魔すれば、暮らし向きや家庭内の言いにくい事情も自然と見えてくる。月参りを長年重ねていくと、檀家さんとお寺との間に深い信頼関係ができあがる。

 ただ、この習慣もずいぶん廃れてきた。私のお寺では、戦後早々の頃には毎月180件ほど月参りに出かけて行ったらしい。今ではその1~2割程度まで減っている。いわば、「不要不急」とみなされているのが、近年の月参り事情である。流行らない理由も分かる。共働きの家庭や、仏壇がない家庭には、お坊さんを月命日ごとに受け入れる習慣が成立し得ない。しかし、それ以上に大きいのは、現代人に「イエ」への帰属意識が希薄だからだろう。月参りでいただく布施は、毎月の寺院運営を安定的に支えてくれる側面があるから、その意味においてもお寺のあり方は曲がり角に来ている。

 さて、コロナ禍で緊急事態宣言が出されている中で、果たして月参りに行くべきかどうか。教会の日曜礼拝もずいぶん中止を余儀なくされたようだが、月参りは檀家さんのご自宅で極めて密に接することになる。感染者数の多かった大阪、兵庫では、5月末ぐらいまで月参りをすべて中止したという話をよく聞いた。

 私も、住職としてどう判断するべきか、かなり悩んだ。檀家さんに「こんなご時勢ですが月参りどうしましょうか?」と聞いたら、「お願いします」とサラッと返ってくることがほとんどだった。京都は大阪や兵庫ほど市中感染が広がらなかったこともあるにせよ、月参りを日々の生活の柱としてきた檀家さんたちの矜持を感じられて嬉しかった。

 ご自宅にうかがうと、珍しく小さな子どもの声がすることもあった。「せっかく休校なので、子どもに手を合わせる習慣をつけさせたくて」とお母さん。正座慣れしてない子どもが、私が読経している後ろで、居心地悪そうに座っているのが可愛らしかった。同時に、日本人が仏壇とともに信仰を養ってきた原風景を見たような気がした。今は退屈な時間だろうが、やがて生活の一部になってくれると嬉しい。

 とはいえ、そんなほのぼのとした仏縁も、月参りが流行らない時代には、休校期間中にせいぜい数回のことであった。子どもたちがお寺から遠くなっている現実を、改めて突きつけられた思いがした。新しいアプローチで教化に励むべき時期に来ていると、コロナ禍は確かに教えてくれた。

 コロナ禍の中で読経や法話をオンラインで配信する試みが、日に日に増えている。小学3年生になった私の長男も休校で暇を持て余していたので、ユーチューバーとしてデビューさせることにした。手始めにアップしたのは、月参りなどでおつとめしている簡単なお経である。子ども自身は世界に発信しているつもりだが、もちろんそこまでの影響力はない。実際に見てくれるのは、知人や近所の人たちが中心である。でも、「動画よかったよ」「がんばってるね」と声をかけてくれるから、月参りに代わる新しいコミュニケーションツールとして手応えは悪くない。コロナ時代の布教を、子どもと二人三脚で励んでいきたい。

池口龍法(浄土宗龍岸寺住職)
 いけぐち・りゅうほう 1980年、兵庫県生まれ。京都大学大学院中退後、知恩院に奉職。2009年に超宗派の若手僧侶を中心に「フリースタイルな僧侶たち」を発足させ代表に就任、フリーマガジンの発行などに取り組む(~15年3月)。著書に『お寺に行こう! 坊主が選んだ「寺」の処方箋』(講談社)/趣味:クラシック音楽

©肉村知夏

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