【映画評】 信仰は問題なのか ダルデンヌ兄弟が眼差すもの 『その手に触れるまで』 2020年6月12日

 ベルギーに暮らす生真面目なメガネ少年が、イスラム過激派思想に感化され女性教師を襲うまでの日々。アラビア語教育をめぐる親たちの議論、白人の義母との微妙な関係など、欧州多文化社会の軋(きし)みを圧縮したような鬱屈から少年を解き放つ導師のささやき。不意の接吻、掌の温もり、胴体を貫く痛み。物語を構成する要素のすべてを、体へ直に響く重い肉感表現が際立たせる。社会の不公正に焦点を当て、カンヌ映画祭において5作連続主要賞獲得という前人未到の快挙を遂げたダルデンヌ兄弟の新作『その手に触れるまで』はしかし、「宗教問題へ斬り込む衝撃作」「白人監督がムスリム少年を描く問題作」などの先行する海外評をその根底でどこか裏切る。

“Le jeune Ahmed” “Young Ahmed”

 ゲーム好きの13歳アメッドは冒頭、内向きだがごく平凡な少年として描かれる。その彼がクルアーンやムスリムの日常作法へ熱中する背景としては、日常生活の鬱屈とイスラム教の導師(イマーム)による鋭く解放感に充ちた文言の影響が仄(ほの)めかされる。欧米のムスリム移民2世ないし3世の若者が、社会格差や差別への反発から原理主義へ傾倒し、テロリストと化す様を描く映画やTVドラマは枚挙に暇がない。ここではカトリック修道女がムスリム青年との出逢いからパリで爆破テロを起こすに至る傑作『ハデウェイヒ』(2009年)を例示するに留めるが、殊ベルギーを含むフランス語圏では旧植民地紛争との関連も深くテーマは錯綜しがちだ。しかし本作は、青年ではなく少年を主人公に据えこの複雑化を回避してしまう。

 また少年が執拗につけ狙う女性教師は、かつて彼自身の言語障害からの恢復(かいふく)に寄与した恩人である点も見逃せない。更生施設で農作業へ従事する場面で少年は、ある少女との出逢いを通じ異性への目覚めを体験する。ダルデンヌ兄弟の作品には珍しく瑞々しい一幕だが、その主題をテロリストへの道と見るならこの場面はかなり浮く一方で、ひとりの少年の成長譚と捉えればこの一幕こそ必須の基調を奏で始める。

 終幕近くで少年はある危機に陥り、当の教師から救いの手をさし伸べられる。クルアーンは男性に妻以外の女性への接触を禁じるのだが、ここでの少年の反応にダルデンヌ兄弟の躊躇を見る批判は少なくない。それら批判は作品の重心を西洋社会とイスラム信仰との衝突に見るゆえだが、筆者の眼にこの物語はもっと広く受け取られた。多様化した今日のベルギー社会において都市やインフラ、教会や学校同様の、ある人格を育み守る環境の一主要素へと比重を増したイスラム信仰の現在を、恐らくダルデンヌ兄弟は直截に、かつ注意深く仔細に写し取ったにすぎない。

 例えばクルアーン5章31節はこう謳う。「たとい貴方が私を殺そうとして手を伸ばしても、私の方では貴方を殺すために手を伸ばしはしますまい」。クルアーンといえば異教徒への厳しさや血の報復ばかりが強調されがちだが、カインとアベルをめぐるこの一節に限らず、キリスト信仰をベースとする西洋社会に親しく通底するものは実際極めて多い。差異でなく、ただ在りもたらされるものとして。さし伸べられた女性教師の手に少年は何を感じ、どう応じたか。そこに込められた温度こそ、半世紀にわたり社会の底部を見つめ続けるダルデンヌ兄弟の現到達点だと言える。(ライター 藤本徹)

6月12日(金)よりヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館ほか全国順次ロードショー!

監督:ジャン=ピエール、リュック・ダルデンヌ
出演:イディル・ベン・アディ、ミリエム・アケディウ、オリヴィエ・ボノー
公式サイト:http://bitters.co.jp/sonoteni/

*引用部出典:『コーラン 上』 井筒俊彦訳 岩波書店

『ハデウェイヒ』(ブリュノ・デュモン監督作、2009年)

 

© Les Films Du Fleuve – Archipel 35 – France 2 Cinéma – Proximus – RTBF

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