【東アジアのリアル】 香港の「自由」はまだ死んでいない 小出雅生 2021年6月11日

 今の香港をどこから説明したものか、たいへん迷う。先週、この32年間で初めて、6月4日の天安門事件の追悼集会が中止に追い込まれた。そして、この数カ月、集会や表現の自由が基本法で保障されているはずの香港で、弁護士や立法会の議員だった、いわば香港の民主化を長年担ってきた人たちへの1年を超える実刑判決が相次いだ。以前なら「違法集会」でも罰金や社会奉仕程度だったが、量刑が極端に増やされた。

 さらに、政府への忠誠を宣誓することが新たに求められることになり、公務員や区議会議員の辞職も相次いでいる。周囲の友人たちも、子育て世代を中心に、海外に移民する人たちが増えている。また児童数の急減や新カリキュラムに伴う、教育現場での混乱も聞く。

 思い返せば90年代初め、世界は冷戦の終わりを高揚感をもって受け止めていた。民主化に向け、新たな体制づくりに模索するアジアの友人たちを日本から応援していた。その後、「寿退社」で香港に来たわけだが、もう一つ理由があった。冷戦の最中で、香港返還は「大砲で失ったものを机で取り返した」「民主主義が成熟してきたのでイギリスの統治は必要としない」と、平和主義や民主化の象徴のように言われていた。私は、いわば「切り離され」「差し出された」側から、「祖国」との和解のプロセスを見たかった。

 それがどうだろう。齢50を過ぎ、催涙弾から逃げ回るようになるなど、想像だにしなかった。人権の分かる「アジアのモデル」と言われた香港警察は、フィリピンの国防費に迫る予算で弾圧してくる。民主主義を目指す市民の同伴者としての彼らはどこに行ったのだろう。

 200万人の抗議を香港警察約3万人で抑え込んだ。力では火器を持つ側が圧倒的に強い。派手なことは、もう今後10年は不可能だろう。続くコロナ禍の中、人に会えない日が続き、精神的に病む人も多く出た。今までの香港が、信じられないくらいの規模と速さで次々と変わっていく中、この先どのように生きていけばいいのだろうと思った。

 今年に入り第4波が収まるに従い、少し規制も緩和され、イースターからは教会での礼拝も再開された。久しぶりミサに出ながら思った。キリストが十字架につけられた後、人々を恐れ、こっそり集まっていた弟子たちも失意のどん底にいたに違いない。ろうそくの光を見ながらそう思えた時、心が定まった気がした。

 今、かつてのオピニオンリーダーや学生たちの裁判があれば、傍聴の行列ができ、護送車が通れば力の限り声援を送る人がいる。社長が民主派を支持していた雑貨屋に警察が嫌がらせに来れば、翌日には香港各地の支店で長い行列ができ、お店の商品を買い支えるなど、まだまだ市民は手を変え品を変え前に進もうとしている。いつもためらいがちだが、私はこの愛すべき大好きな人たちと共にいたいと思う。

民主派の裁判があれば、出廷のため送られてきた人に声援を送る

ミャンマーにも連帯を、と3本指のサインを出す人も増えた

 運動の激しかったころ、若い学生の熱い思いに対し、私たち大人世代の力不足を常々思い知らされてきた。せめて今、その傷ついた若い人たちのためにできることをしたいと仲間と共に模索中だ。

 6月4日、毎年天安門事件の追悼集会に使われてきたヴィクトリア公園が初めて公安条例によって閉鎖された。それでも、約7千人の警官がにらみをきかせ、交通規制もかかる中、公園周辺や各地で、ローソクや携帯電話のライトを手に持ちながら思い思いの活動が行われた。七つのカトリック教会と一つのメソジスト教会で追悼ミサ・礼拝も行われた。教会の外に「邪教」などとバナーが貼られたりもしたが、いずれも満員で人は入りきれなかった。

 香港では個々人がユニークに行動する。まだ「死ぬ」には早い。

公園の入口を警官がふさぐ中、LEDキャンドルで追悼活動

 こいで・まさお 香港中文大学非常勤講師。奈良県生まれ。慶應義塾大学在学中に、学生YMCA 委員長。以後、歌舞伎町でフランス人神父の始めたバー「エポペ」スタッフ。2001年に香港移住。NGO勤務を経て2006 年から中文大学で教える。

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