【宗教リテラシー向上委員会】 仏教は「反出生主義」のルーツか 池口龍法 2021年7月11日

 王族の跡継ぎという約束された立場を捨て、妻子に別れを告げてまで、お釈迦様が出家して求道生活を志したエピソードが示すように、仏教はこの世の幸せに酔うことを嫌う。経典には、初期のころから「一切皆苦(この世に生きることすべては苦しみである)」が旗印の一つとして掲げられ、娑婆世界の生存をいとうべきものだと説かれる。したがって、自死者が年間3万人を超えた2008年以降、日本の僧侶はこぞって、自死を思いとどまらせる言葉を経典の中に求めたが、至難を極めた。むしろ煩悩尽きた聖者が自死を選んだエピソードに出会って返り討ちに会う始末だった。

 このような極度に厭世的な世界観ゆえに、この数年、仏教が「反出生主義」のルーツであるかのように引き合いに出されることが多い。反出生主義とは、この立場を強力に擁護する南アフリカの哲学者デイヴィット・ベネターによれば、存在してしまうことは常に深刻な害悪であると考えるものである。やがて生まれてくる子どもも、どうせ苦しみを受けることになると決まっているから、大人の身勝手な性行為によって子どもを作るのは慎むべきだという。やがては人口が減少し、滅亡することを理想とする。

 氏の著作『生まれてこないほうが良かった』が2017年に翻訳されて以降、日本でも反出生主義は静かな広がりを見せている。人間が自らの人生に絶望を抱くのは、今に限ったことではなく、反出生主義的な気分はいつの時代にもある。しかし、現代には共感を呼びやすい土壌がある。一つには、社会の格差が広がったことで閉塞感がくすぶっていることだろう。非正規雇用者は常に弱い立場にあり、コロナ禍の中でも雇い止めが起こったことは記憶に新しい。また、世界に目を向けるなら、人口が増えるほどに食糧問題は深刻さを増す。人間が生きているだけで地球環境を破壊してしまう後ろめたさも抱える。

 仏教の教義もまた、どうせ生きている間、苦しみは絶えないと理解する。確かに反出生主義に似ている。しかし、厭世的な思考はあくまで出発地点である。では目的地はどこか。

 仏教の前提には、いわゆる「輪廻」といわれる世界観がある。私たちは生まれれば必ず老いて死ぬが、死んでもそれで終わりではなく、生前の行いに応じて来世の行き先――地獄に堕ちるか人間界に再び生を受けるかなど――が決まり、新たな命が始まる。生まれればまた老いて死んでいく。迷いの旅は終わらない。しかし、苦しみを理解して行動を慎めば、迷いの旅路から抜け出す道が見えてくる。やがては苦しみを完全に断ち切れる。目指しゆく地平がはっきりと示されているから、経典は厭世的な言葉が連なるが希望が見える。

 現代の日本ではこのような世界観は旧時代の遺物のように思われている節もあるが、そこはたいした問題ではない。輪廻の物語の中で仏教が伝えてきた核心は、「苦しみのもとを理解すれば人生が変わる」というシンプルな真理だと私はとらえている。この真理は、いつまでも色あせないだろう。反出生主義的な気分が蔓延する中にあって、反出生主義を超克する貴重な視座を持つとさえいえる。

 コロナ禍の出口もはっきり見えず、生きにくい空気が漂う日々は続く。しかし、仏教はそもそも2500年前から「一切皆苦」と言ってきたし、人間は考えて行動することでどんな苦しみも乗り越えられる生き物だと信じてきた。苦しみに流されそうな時代だからこそ、仏教の伝統を正しく受け止め、未来へと歩む力としていきたい。

池口龍法(浄土宗龍岸寺住職)
 いけぐち・りゅうほう 1980年、兵庫県生まれ。京都大学大学院中退後、知恩院に奉職。2009年に超宗派の若手僧侶を中心に「フリースタイルな僧侶たち」を発足させ代表に就任、フリーマガジンの発行などに取り組む(~15年3月)。著書に『お寺に行こう! 坊主が選んだ「寺」の処方箋』(講談社)/趣味:クラシック音楽

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